SSブログ
前の5件 | -

古事記を読む


古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)

古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/11/14
  • メディア: 単行本



古事記を読みました。
現代語訳されてるので面白く読みました。
神様生み過ぎです。

調査ふうに断面ダイアグラムを書いて終わります
kojiki のコピー.jpg

コメント(7) 

9 戦う教会、10 栄光の教会 [美術の物語]

Milanoambrogio0002.jpg
建築様式は一部ゴシックへの過渡期的特徴もあるロマネスク教会の傑作。
アトリウムの人間的なスケール感は、ルイスカーンにも近い(野口談)

9章と10章はともに中世の教会を中心に扱っているが、「戦う教会(12c)」と「栄光の教会(13c)」というタイトルからも分かるように、その性格は大きく異なっている。

ロマネスク(12c)とゴシック(13c)の構造的発展については過去の授業メモ「フライング・バットレスの奇跡」に書いたが、そもそも教会や修道院の建設が活発に行われるようになったのは、西暦1000年にこの世の終わりが来ると真剣に信じられていたヨーロッパ世界において、紀元1000年が無事に過ぎたことへの、神への感謝が背景にあったそうだ(野口先生談)。

9 戦う教会
「戦う教会」という言葉には、ロマネスク教会や修道院が、都市から離れた農村に多く作られたことと関係がある。自給自足の場として、共同体の紐帯の場として、ひいては存続のための中心的な存在として、教会がつくられたのだった。端的に述べられているのはここである。
ロマネスク(ノルマン)様式の教会は、昔のバシリカと基本構造は同じであっても、全体的な印象はまったくちがう。初期のバシリカでは、古典的な円柱がまっすぐな「エンタブラチャー」(装飾大梁)を支えていたが、ロマネスク様式の教会では、太い角柱が円形アーチを支えているのがふつうだ。こうした教会は全体として、内側も外側も、重厚で力強い印象を与える。装飾はごくわずか、窓さえほとんどなく、堅固で頑丈な壁と塔が、中世の要塞を思わせる。つい最近まで、異教的な暮らしにどっぷりつかったていた農民や兵士たちの土地に、力強く挑戦的な石積みの教会が建てられると、それはまさに「戦う教会」という理念を体現しているように見える。最後の審判の日、勝利のときがくるまで、闇の力と戦い続けることこそ地上の教会の使命だ、というのがその理念の内容である。(ポケット版、130p)
12世紀のロマネスク様式の特徴として、保守的なビザンティン美術と近づいたこと(十字軍の遠征があった)が挙げられる。身体の動きや生き生きとした描写ではなく、伝統的な聖なる存在をいかに象徴的に表現するか。受胎告知を描いたカラフルな絵画やステンドグラスを例に、以下のように述べている。かなり端折るけど以下引用。
受胎告知の神秘を描くには、象徴だけで充分だった。(中略)見えるとおりに描きたいという欲求を捨て去ったとき、画家の前にはすばらしい可能性が開かれていたからだ。(中略)絵画が絵文字のようなものになりつつあったのは確かだ。しかし、こういう単純な表現方法に戻った分だけ、中世の画家たちは、より複雑な構成方法(構成方法とは英語では「寄せ集めること」という意味だ)に自由に挑戦できるようになったのだ。(中略)自然から独立した当時の名工たちが、その自由をみごとに生かしているのがわかる。自然会を模倣する義務から解き放たれることによって、彼らは超自然の世界を表現できるようになったのである。(ポケット版、135-136p)
con-positionの概念がここから生まれたということなのか。

10 栄光の教会
ゴシック聖堂の構造的発展(とくにフライングバットレス)はここでは触れないが、ゴンブリッチは、フランスやイングランドのゴシック聖堂の入り口に並ぶ生き生きとした彫刻群から、古代技法(ギリシャ)の復活、自然を見つめる眼の復活を指摘している。
13世紀の文化の中心はパリに移り、イタリアは保守的なビザンチン美術との交流もあり、変化という点では遅れをとった。
ここで、イタリアの絵画に革命を起こした人物として、ジョットが大きく紹介されている。というか、『美術の物語』を読み進めていくなかで、作家の人物名がここまでフューチャーされているのはジョットが初めてだ。
Giotto_-_Scrovegni_-_-36-_-_Lamentation_(The_Mourning_of_Christ).jpg

一気にここまで来たか。というか、ああ、いよいよルネサンスがやってくる感じがする。
コメント(0) 

7 東方を見てみると、8 るつぼの中の西欧美術 [美術の物語]

1280px-Lindaraja_window,_the_Liones_Palace,_Alhambra,_Granada.JPG

7 東方を見てみると
宗教の物語を描くとき、ときに人物像を作ることが禁止されるとき、美術はどのように振るまってきたのか。今回はキリスト教以外の2大宗教、イスラム教と仏教について。

イスラム教と図像の関係を端的に述べたのは以下の一文だ。
8世紀に破竹の勢いで広がった中東の宗教――ペルシャ、メソポタミア、エジプト、北アフリカ、スペインを制服したイスラム教――は、図像についてはキリストよりもはるかに厳格だった。そもそも図像の制作が禁じられていたのだ。しかし、美術というものはそう簡単に抑えられるものではない。事実、人物像を作ることが許されなかった東方の職人たちは、模様や図形に想像力の捌口を見出した。アラベスクの名で知られる精緻極まるレース模様は、こうして生まれたのである。(ポケット版、111p)

図像が作れなかったから模様が発達した、ってホントなのだろうか。とはいえゴンブリッチによれば、イスラム圏の装飾模様のデザインや配色の由来を辿っていくと、最終的には予言者ムハンマドに行き着くらしいのだ。

アンダルシアの都市と田園

アンダルシアの都市と田園

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 2013/02/13
  • メディア: 単行本
この前読んだ『アンダルシアの都市と田園』では、装飾ではなく、グラナダをはじめとしたアンダルシア都市のパティオ(中庭)を囲んだ住宅と都市の関係が詳細に語られていてとても面白かったのだが、こういう住居形式にもまた、宗教的な理由があって出来たのだろうか。

いっぽう中国をはじめとして仏教圏において、しばしば美術は「瞑想のための手段」として制作されたという。「自然から数少ないモティーフをとってきて、それだけを描く態度」。そんなに瞑想ばかりしていたのだろうか。

8 るつぼの中の西欧美術
313年にキリスト教がローマ帝国の正教に定められてからの300年を初期キリスト教時代とよぶ。この時間には聖書の内容を伝えるのに美術が用いられてきた。建築ではサン・ヴィターレ聖堂(543)やサンタポリナーレ聖堂(549。ともにラヴェンナ。両方見たい)といった初期バシリカ構造の傑作が生まれた。
で、476年に西ローマ帝国が崩壊してからの500年間。だいたい500-1000年くらいの間を一般に「暗黒時代」というそうだ。なぜ「暗黒」かというと、①民族移動と戦争の時代だった、②資料が残っていない、③数多くの様式がせめぎあっていた、などの特徴があるからだ。
このあとイングランドやゲルマン系民族の美術が紹介されるのだが、ここではじめて「中央と周縁」という構図が初めて生まれたのではないだろうか。フランク帝国(ドイツ)のカール大帝がサン・ヴィターレ聖堂をマネしてアーヘンの宮廷礼拝堂(805)を作ったように、(あくまで文化的な)先進国と後進国のような意識はできていたのではないか。

img_0.jpeg

聖マタイ(アーヘン、830頃)source image かっこいい。

というわけでこの時代の美術の特徴を一括りにすることは、いくらゴンブリッチ先生とはいえ難しそうだけれど、ケルトやノルマン、フランク帝国といった「当時の後進国」の美術の特徴は、表現においても想像力を最大に駆使している、というところだろうか。ちょっと長くなるけど、上のマタイの絵に対するゴンブリッチのテキストを引用してみよう。
(中略)こういう絵を見ると、新しい中世様式が出現したのだと納得できる。いまや、古代オリエント美術でも古代美術でもなされなかったことが、可能になったのだ。エジプト人はおもに「知っている」ことを描いた。ギリシャ人は「見えている」ものを描いた。だが、中世の画家は「感じている」ことをも表現できるようになったのである。 「感じている」ことの表現を目指していたという点を押さえておかないと、中世の作品を正当に評価することはできない。中世の芸術家たちは、実物そっくりに見せかけたり、美しいものを作りたがっていたわけではない――聖なる物語の内容やメッセージを、信仰の仲間に伝えようとしていたのだ。(ポケット版、124p)
審美性みたいなものが制作における評価軸に入ったり入らなかたりするのは面白い。ギリシャ美術は明らかに審美性があったし、エジプトはその中間くらい。もちろん「美しさを目指すこと」と「物語を伝えること」は相反しないが、この時代の「美しさ」の基準は、ギリシャ的なプロポーションの美学とか、「観察したものをいかに定着させるか」というところにあったんだろう、という気がする。
コメント(0) 

建築にオーセンティシティはあるのか? [建築の歴史]

パルテノン神殿(B.C.447-432)
パンテオン(120-124)
アヤ・ソフィア(532-537)

同時代における他の古代建築がほとんど廃墟となったなかで、これらの建築が国家や宗教を超えて生きのこった理由はどこにあるのだろうか。生き残った理由の一因に「オーセンティシティ」はあるのか。

The_Parthenon_in_Athens.jpg
Παρθενών(image source: wikipedia


パルテノン神殿は2回変わり身をしている。古代ギリシャの多神教がキリスト教に取り込まれたのちはキリスト教会堂に転用され(神殿と教会は違う)、オスマン帝国の占領下ではイスラム教のモスクとして使われてきた。戦乱期には火薬庫としても使われ、(そこにヴェネツィア軍が海から放った砲弾がみごとに命中、火薬に引火して全体の2/3が爆破するという)結構な羽目にも合っているけど、今でもアクロポリスの丘に登ればこの目で見ることができる。

394px-Pantheon_0918_2013.jpg
Pantheon source: wikipedia

パンテオンも同様にリサイクルされた。元々は万の神の神殿として建設されたが、ローマ帝国の国教がキリスト教になってからも教会として転用され、今も残っている。(一部の大理石は建材不足で剥がされた)

Hagia_Sophia_Mars_2013.jpg
Hagia Sophia source: wikipedia

今日の授業で聞いたアヤ・ソフィア(ハギア・ソフィアはギリシャ語)は、もともとはビザンティンのキリスト教会として建てられたが、1457年にコンスタンティノープルが没落すると、イスラムのモスクに取って代わられた。平面の十字形はミフラーブに変えられ、モザイク模様は全て漆喰が塗られ、4本の巨大なミナレットも建った。キリスト教教会からイスラム教寺院の転用はかなり無茶だったと想像されるが、それでも破壊されることはなかった。


これらの名建築に共通するのは「転用」されて生き延びているという点だ。

転用された理由には、巨大さゆえに破壊するのが面倒だったというようなポジティブではない要因もあるだろう。しかし、その建築が美しく「本物だ」と誰もが感じてしまうような、ある種の真実性(オーセンティシティ)を獲得していた可能性もあるのかもしれない。
授業後、芸大の野口先生に質問してみた。

野口氏曰く、国家や宗教を超えて建物が残る理由は3つあるという。
厳密な氏の言葉ではないが、1)破壊するのに手間がかかること(規模が大きく技術力が高い)、2)宗教を塗り替えたという事実の証明として使われたこと、3)建築が力強いほどの美しさを持っていること、この3つの要因があるのだそう。

面白いことに、アヤ・ソフィアはその後のトルコにおいて、新たに建設されたモスクのかたちの「規範」になったそうだ。ギリシャ教会を転用したオリジナルではない「異教の」建築であるにもかかわらず、だ。
「建築のオーセンティシティ」を声高に掲げるのは何だか気がひけるのだが、アヤ・ソフィアが新たな様式になったしまった話を聞くと、さすがに無視することはできない気がしてくる。

「建築に国家や宗教を超えるオーセンティシティはあるのか」という問いに対しては、今のところ「少なくともあった」ということはいえる。しかしそもそも「建築のオーセンティシィティ」とは何なのだろうか。真正性や信憑性やといった訳は分かるようで全く分からない。ホンモノ感?それも嘘くさいし。

ひとまずここでは「本物の建築には美しさがあって、それを建築のオーセンティシィティとする」ことにしてみる。すると「美しさ」を感じるのは個々人の主観だから、客観的なオーセンティシティは証明できない。とはいえ、主観的な「美しさ」が、相当数の人数と時代にわたって人々に印象づけられれば、それは最初に挙げたような建築たちと同様にオーセンティシティを持つことになるのだろうか。

「時代を超え、不特定多数の人々に認められた建物が持つ、美しさを備えた質のこと」?

後日談:2014年の夏にローマのパンテオンに行きました。感動した。あれはオーセンティシィティがあったのだけど、うまく言葉にできない。
コメント(0) 

5 世界の征服者たち、6 歴史の分かれ道 [美術の物語]



ローマのアーチや弱い技術については西洋建築史「砂糖菓子の脅威」でもやったけれど、それにしてもパンテオンすごい。パンテオン神殿は紀元120-124年の建設、万の神の神殿という意味であり、ローマ建築の最高傑作だ。古代神殿は破壊され廃墟になるものが多いが、パンテオンは313年にキリスト教が公認されてからも、教会に転用されることで生き延びた。夏ぜったい見に行く

このへんから政治的な国家レイヤーと宗教レイヤーがごっちゃになってくる。313年からの3世紀くらいを美術史や建築史では初期キリスト教時代と呼ぶ(わたしはキリスト教についてはぜんぜん知らない)が、ゴンブリッチは、キリスト教の興隆の目の当たりにし、人々がそれを受け入れることになったこの時代を「古代世界の終焉」と結んでいる。

図のカタコンベの壁画に対してのゴンブリッチの解釈はこうだ。
彼らは、絵筆をさっと2、3回動かすだけで、人間の姿を浮かび上がらせることができた。けれど、彼らは、そういう効果や技巧にあまり関心がなかったようにも感じられる。絵はもはや、たんに美しい存在ではない。むしろ絵のおもな目的は、神の慈悲と力の大きさを信者に思い出させることにあった。(ポケット版, 98P)

「死者のための美術(エジプト)」→人「間のための美術(ギリシャ)」→「宗教のための美術(初期キリスト教時代)」という風に(自分なりに)単純化するのは良くない気もするが、ともかくゴンブリッチは、たとえばギリシャ美術のラオコーン像と対比させながら「忠実な模倣という理想から、単純明瞭な観念の表現へと秤が傾きはじめたのだ(99p)」と、ギリシャ美術の洗練と調和(観察による、ありのままの自然な形と短縮法)が変化していることを指摘する。
ストーリーを伝えるために余計な細かい描写を省略するようなことは今もよくあることだし、伝えることから表現を考えるのは「広告」的な考え方になっているようでもある。

キリスト教時代の最大の問題である図像をOKとするか否か問題はここでは触れないけど、このへんは面白そうではある。

コメント(0) 
前の5件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。