ロマネスク(ノルマン)様式の教会は、昔のバシリカと基本構造は同じであっても、全体的な印象はまったくちがう。初期のバシリカでは、古典的な円柱がまっすぐな「エンタブラチャー」(装飾大梁)を支えていたが、ロマネスク様式の教会では、太い角柱が円形アーチを支えているのがふつうだ。こうした教会は全体として、内側も外側も、重厚で力強い印象を与える。装飾はごくわずか、窓さえほとんどなく、堅固で頑丈な壁と塔が、中世の要塞を思わせる。つい最近まで、異教的な暮らしにどっぷりつかったていた農民や兵士たちの土地に、力強く挑戦的な石積みの教会が建てられると、それはまさに「戦う教会」という理念を体現しているように見える。最後の審判の日、勝利のときがくるまで、闇の力と戦い続けることこそ地上の教会の使命だ、というのがその理念の内容である。(ポケット版、130p)12世紀のロマネスク様式の特徴として、保守的なビザンティン美術と近づいたこと(十字軍の遠征があった)が挙げられる。身体の動きや生き生きとした描写ではなく、伝統的な聖なる存在をいかに象徴的に表現するか。受胎告知を描いたカラフルな絵画やステンドグラスを例に、以下のように述べている。かなり端折るけど以下引用。
受胎告知の神秘を描くには、象徴だけで充分だった。(中略)見えるとおりに描きたいという欲求を捨て去ったとき、画家の前にはすばらしい可能性が開かれていたからだ。(中略)絵画が絵文字のようなものになりつつあったのは確かだ。しかし、こういう単純な表現方法に戻った分だけ、中世の画家たちは、より複雑な構成方法(構成方法とは英語では「寄せ集めること」という意味だ)に自由に挑戦できるようになったのだ。(中略)自然から独立した当時の名工たちが、その自由をみごとに生かしているのがわかる。自然会を模倣する義務から解き放たれることによって、彼らは超自然の世界を表現できるようになったのである。(ポケット版、135-136p)con-positionの概念がここから生まれたということなのか。
8世紀に破竹の勢いで広がった中東の宗教――ペルシャ、メソポタミア、エジプト、北アフリカ、スペインを制服したイスラム教――は、図像についてはキリストよりもはるかに厳格だった。そもそも図像の制作が禁じられていたのだ。しかし、美術というものはそう簡単に抑えられるものではない。事実、人物像を作ることが許されなかった東方の職人たちは、模様や図形に想像力の捌口を見出した。アラベスクの名で知られる精緻極まるレース模様は、こうして生まれたのである。(ポケット版、111p)
(中略)こういう絵を見ると、新しい中世様式が出現したのだと納得できる。いまや、古代オリエント美術でも古代美術でもなされなかったことが、可能になったのだ。エジプト人はおもに「知っている」ことを描いた。ギリシャ人は「見えている」ものを描いた。だが、中世の画家は「感じている」ことをも表現できるようになったのである。 「感じている」ことの表現を目指していたという点を押さえておかないと、中世の作品を正当に評価することはできない。中世の芸術家たちは、実物そっくりに見せかけたり、美しいものを作りたがっていたわけではない――聖なる物語の内容やメッセージを、信仰の仲間に伝えようとしていたのだ。(ポケット版、124p)審美性みたいなものが制作における評価軸に入ったり入らなかたりするのは面白い。ギリシャ美術は明らかに審美性があったし、エジプトはその中間くらい。もちろん「美しさを目指すこと」と「物語を伝えること」は相反しないが、この時代の「美しさ」の基準は、ギリシャ的なプロポーションの美学とか、「観察したものをいかに定着させるか」というところにあったんだろう、という気がする。 ]]>
彼らは、絵筆をさっと2、3回動かすだけで、人間の姿を浮かび上がらせることができた。けれど、彼らは、そういう効果や技巧にあまり関心がなかったようにも感じられる。絵はもはや、たんに美しい存在ではない。むしろ絵のおもな目的は、神の慈悲と力の大きさを信者に思い出させることにあった。(ポケット版, 98P)
ギリシャ時代の偉大な革命の時代――ありのままの自然な形と短縮法を発見した時代――は、人類史のなかでも、もっとも驚嘆すべき時代だった。それはまさに、ギリシャの都市に住む人びとが、神々についての古来の言い伝えに疑問を抱き、先入観を排し、ものごとの本質を探求しはじめた時代だった。それは、今日私たちが理解しているような意味での科学と哲学が、初めて人びとの心に目覚めた時代、ディオニュソスを称える儀式から初めて演劇が誕生した時代だった。(ポケット版、68P)しかしながら当時の芸術家たちはけっして知識階級ではなく、あくまで手を使って生計のために働く人々だったという。
しかし、当時のギリシャ人たちがもっとも重要だと考えたのは、それとは別のことだった。どんな姿勢の、どんな動きをする人体でも自由に表現できる、という新しい技術を使って、彼らは人物の内面を映し出そうとしたのだ。彫刻制作の訓練を受けたことのある大哲学者ソクラテスは、弟子のひとりの言によれば、芸術家たちの内面を表現するよう奨めていたという。表現すべきは「魂の働き」であり、それには「感情が体の働きに及ぼす影響」を正確に観察しなければならない。それがソクラテスの考えだった。(p78)こういう考えが2500年も前に生まれていることがすごいし(ソクラテスすごいよ)、この一文を書いたゴンブリッチもすごい。
エジプト人の信仰では、死後の魂にとって遺体を保存するだけでは不十分だった。王の肖像もいっしょに残せば、さらに確実に王は生きつづけることができると考えられていた。そこで彫刻家に命じて、固くて風化しにくい御影石で王の頭頂部を彫らせ、それをだれの目にもふれない墓室に納めた。墓のなかではまじないが働き、肖像を通じて魂は生きつづける。現にエジプトでは、彫刻家は「生かしつづける者」と呼ばれた。(中略)その厳粛ですっきりした感じは、一度みたら忘れられない。(中略)人間の頭部の基本的に形が、厳しいまでの集中力で追求されているからだ。 (ポケット版50-51p)ゴンブリッジはエジプト美術に見られるこうした特徴を「幾何学的な調和と鋭い自然観察のバランス」としている。「きれいさでなく完全さ」が求められたのは、その目的が「死者のため」であり、死後の王に仕えることができるものを(おそらく描いたものが具現化すると考えていた)描ききる必要があったからだ。
位置関係がだいたい同じなら、顔に見えるはずだ。未開人の作り手にとって、これはたぶんとても大きな発見だった。位置関係がだいたい同じなら、多少変化をつけても顔に見えるのだから、顔や形を作るのに、自分の好きな形を、自分の技術レベルに合わせて選べるのだ。そうして出来上がったものは、あまり写実的ではなかったかもしれない。しかし、位置関係に一定のパターンがあるため、ある程度の統一と調和が感じられたはずだ。(p.46)
「人間の顔という定型を成立させている不変の配置のなかで励起された、特定項目の想像的な振る舞い」。お面の意味はこのように位置づけられる。このお面の変形技術、変形をめぐる知性には学ぶべきことが多そうである。『空間の響き/響きの空間』(INAX出版、2009、p.17)
(中略)つまり、さしたる特徴もないあたりまえのたくさんの住宅に似ていながらも、あるいは似ているからこど、一部を変形させることによって、おもしろい、驚きをもった建築をつくることができるのである。同p.18
これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。(p.15)この章で気になった絵
「記録を中心にして書かれた歴史では、採集経済時代から農耕経済時代にはいると、すべての農民が農耕によって生きているような筆致で書いているけれども、本当の民衆の歴史はそういうものではなく、平坦な水田単作地帯をのぞいては、なお採集経済が長く続いていたのである。そして農民たちは米は税としておさめ、自分たちは畑でつくったものや、自然採集したものに大きくよってきたのが、明治・大正までの姿であるといっていい。」(p.20)一部を除く広い範囲で明治・大正まで採集経済が続いてきたというのはにわかに信じがたいのだが、柳田國男『山村生活の研究』や同『郷土食慣行調査報告書』などによると、とくに東日本では自然採集の割合が多く、一日一度は餅を、トチやドンクリなど果穀類の餅を食べているところが多いそうだ。
こうして日本の民衆はいつまでたっても原初の生活から容易にぬけだせなかったのであるが、それにもかかわらず、この国土のあらゆる振りな条件を克服して、隅々にまで住みついたのである。(p.21)自分の現実生活と乖離しすぎてて、まるで実感がない。
元来、畑作物は貢租の対象になることがすくなかったから、その様子を伝える記録はきわめてすくないのだが、とにかく農耕のなかで畑作のしめる位置はかなり高いものがあった。それもそのはずで、明治初年までは畑の面積のほうが水田面積よりもひろかった。そして畑があることによって民衆は日常の生活をうちたてることができたといえよう。
京都洛西ニュータウンにある中層集合住宅。 46戸の居住者が建築家と協力し、設計に参加したコーポラティブ住宅の方式で建設された。 住棟に囲まれた敷地中央のまとまった共用緑地と広場からアクセスするコモンアクセス形式の住戸配置計画である。 48戸の住宅はそれぞれ個性を保ちながら、住戸間のコミュニケーションを考慮して、必要なときにお互いに行き来できる様にしたつづきバルコニーや通り抜け共用通路等を設けている。(京都、1985年) http://kenchikukeikaku2009.seesaa.net/article/121431884.html講演のなかで「物語をナラティブにつむぐ」ということを言っていたのが印象的だった。共同生活の面白さもめんどう臭さも、ひっくるめて引き受けるという意味だと思うのだが、そのあと後藤先生も「都市計画はこれまでハードウェア、ソフトウェアを計画してきたが、ユーコートの試みはいわばナラティブウェア。これから都市計画はナラティブウェアをいかに設計するかに移っていくのだろう」みたいなことを言っていた気がする。
「...史的唯物論が「唯物論」的であるということは、それが、人間社会の歴史的な変化の原動力を、「神」や「自我」といった社会の外に立つ何らかの精神に求めるのでなく、あくまでも社会そのものの内部に探究していくということです。生物の進化や宇宙の進化を「神」の意志から説明するのではなく、事柄そのものから説明することが今日の自然科学のあたりまえの姿であるのと同じように、人間社会の進化もまたその事柄自体から説明しようとするのが、史的唯物論の立場です。」(本書,p.171)
労働者はみずからの生命を対象に注ぎ込む。しかし、対象に注ぎ込まれた生命はもはや彼のものではなく、対象のものである。......彼の労働の生産物であるものは、彼ではない。したがって、この生産物が大きくなればなるほど、労働者自身はそれだけ乏しくなっていく。労働者がみずからの生産物において外化するということは、彼の労働がひとつの対象に、ひとつの外的な現実存在になるというだけではなく、彼の労働が彼の外に、彼から独立した疎遠なかたちで存在し、彼に対して自立した力になり、彼が対象に付与した生命が彼にたいして敵対的かつ疎遠に対立するという意味をもつのである」(「経済学・哲学草稿」『マルクス・コレクションⅦ』今村仁司訳,筑摩書房,345p)
「共産主義者は、これまでの一切の社会秩序を強力的に顛覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級をして、共産主義革命のまえに戦慄せしめよ。プロレテリアは、革命において鉄鎖のほか失うべきものをももたない。かれらは世界を獲得しなければならない。 万国のプロレタリアよ団結せよ!」 (大内平衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』岩波文庫,1951,87p)
「政治的解放は、たしかに、一大進歩である。それはなるほど人間的解放一般の最後の形式ではないが、しかし従来の世界秩序の内部における人間的解放の最後の形式である。」 (『全集』第一巻,393-394p)
「理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる。理論が大衆をつかみうるようになるのは、それが人に訴えるように論証を行ときであり、理論が人に訴えるように論証するようになるのは、それがラディカルになるときである。ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである。」 (同前、422p)
「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する」 (花崎皋平訳『新版ドイツ・イデオロギー』,合同出版,1966,31p)