サブカルチャー論10 [サブカルチャー]
80年代で顕著になった「モノを売る」という仕事。第三次産業がそれ以外の仕事を圧倒的に凌駕するようになった。「広告都市東京」
西武セゾングループが渋谷を「広告都市」化させた。
「西武セゾングループは、文化化の戦略をつねに街・都市とのメタファーに即して展開してきた。
都市的なるものと企業広告との新たな関係、文化に媒介された都市との関係性ーを模倣した点にこそ、80年代を先導した西武セゾンの真骨頂である。」(「広告都市東京」より)
区役所通り。(google mapのストリートビューから。画質上がった。すごい)
PARCOパート2からNHKホール、渋谷公会堂(CC LEMON ホール)への坂道、
以前は何もない通りだったが、パルコの増田はなにかの気配を感じていた。
そして、区役所通りは完全に西武セゾングループの戦略によって大きく変えられた。
当時17歳の藤原ヒロシの話を聴く
「丘の上のパンク」藤原ヒロシの半世記
藤原ヒロシのヒップホップのはじまりの映像とスチャダラパーの映像をみる。
スチャダラパーの「言葉の変容」肝心なのは変え方。日常の言葉をすこし変えてヒップホップ
ニッポン語でどう現代を語るか。
スチャダラパー「GET UP AND DANCE」
ポンキッキーズの声ってBOSE君じゃん!知らなかった
Frankie Goes To Hollywood "Relax" 1983 がオープニング
いろんなリミックス版が出た。同じ曲でリミックスしたのが何枚も出た。
「Relax」と「おたく」は同じ1983年に出現した。
様々な変容 巨大なコミケ。秋葉原の変容。
1978年、アニメーション研究会の変質 創作者から、受動者へ
手塚治虫の実験映像を見る。
モンティパイソンの映像のアニメはテリーギリアムが作っていた。それを見。
COM、ガロなどの初期の漫画雑誌 が流行する。
彼らが目指していたのは「永島慎二 漫画家残酷物語」
実験的なアニメをつくっていた若者たちが、いつしかアニメーションのファンになっていた。
ルパン三世がその代表。それに並走するようにコミックマーケットが1975年に誕生し、発展する。
コミックマーケット=コミケは、元々はマンガを発表する場だった。次第にヤマトやガンダムをはじめとするアニメブームがあったりして、コミケの質も変わっていった。
「ムー」という雑誌の投稿欄が面白かった。なんかニコニコ動画みたいな感じ。
↓
オタクの強力な指向である、自分たちとおなじようなタイプの人間とのみ、つまり自分の直接の映しとなる人間としか接しない傾向。言わば「内閉する連帯」というべき性質がある。
しかしそれはピテカンエレクトロプスのオシャレな人たちも同じだった。
仲間うちみたいな、閉鎖性が強く存在もしていた。
「趣味や情報を共有する集団の内部的埋没」という点においては、「おたく」も「ピテカン」も構造的にはほぼ同じである。と。
大きな意味での「他者」に出会わなくなった。
それは、サブカルチャーが「サブカル」になったことにつなげられる。
内閉がサブカルの特徴なのかな?
THE ART OF NOISE WHO'S AFRAID OF...!を聴く。
80年代の音楽の特徴はサンプリング。サンプラーは当時めちゃくちゃ高かった。
大友克洋の登場
大友克洋が80年代に果たした役割 きわめてリアルな日本人が描かれている。
的確なデッサン力、細い線、細かい描写、斬新なシーン。
「童夢」超能力、超自然的な世界。
そして、岡崎京子「リバーズ・エッジ」
岡崎京子は、絵もストーリーも、りぼんなどの、いかにも少女まんが誌には描けなかった。
それでエロ雑誌に描く。とても辛かった。それでもまんが家になりたかった。
「東京ガールズブラボー」
東京にあこがれる女の子。
西武セゾングループが渋谷を「広告都市」化させた。
「西武セゾングループは、文化化の戦略をつねに街・都市とのメタファーに即して展開してきた。
都市的なるものと企業広告との新たな関係、文化に媒介された都市との関係性ーを模倣した点にこそ、80年代を先導した西武セゾンの真骨頂である。」(「広告都市東京」より)
区役所通り。(google mapのストリートビューから。画質上がった。すごい)
PARCOパート2からNHKホール、渋谷公会堂(CC LEMON ホール)への坂道、
以前は何もない通りだったが、パルコの増田はなにかの気配を感じていた。
そして、区役所通りは完全に西武セゾングループの戦略によって大きく変えられた。
当時17歳の藤原ヒロシの話を聴く
「丘の上のパンク」藤原ヒロシの半世記
藤原ヒロシのヒップホップのはじまりの映像とスチャダラパーの映像をみる。
スチャダラパーの「言葉の変容」肝心なのは変え方。日常の言葉をすこし変えてヒップホップ
ニッポン語でどう現代を語るか。
スチャダラパー「GET UP AND DANCE」
ポンキッキーズの声ってBOSE君じゃん!知らなかった
Frankie Goes To Hollywood "Relax" 1983 がオープニング
いろんなリミックス版が出た。同じ曲でリミックスしたのが何枚も出た。
「Relax」と「おたく」は同じ1983年に出現した。
様々な変容 巨大なコミケ。秋葉原の変容。
1978年、アニメーション研究会の変質 創作者から、受動者へ
手塚治虫の実験映像を見る。
モンティパイソンの映像のアニメはテリーギリアムが作っていた。それを見。
COM、ガロなどの初期の漫画雑誌 が流行する。
彼らが目指していたのは「永島慎二 漫画家残酷物語」
実験的なアニメをつくっていた若者たちが、いつしかアニメーションのファンになっていた。
ルパン三世がその代表。それに並走するようにコミックマーケットが1975年に誕生し、発展する。
コミックマーケット=コミケは、元々はマンガを発表する場だった。次第にヤマトやガンダムをはじめとするアニメブームがあったりして、コミケの質も変わっていった。
「ムー」という雑誌の投稿欄が面白かった。なんかニコニコ動画みたいな感じ。
↓
オタクの強力な指向である、自分たちとおなじようなタイプの人間とのみ、つまり自分の直接の映しとなる人間としか接しない傾向。言わば「内閉する連帯」というべき性質がある。
しかしそれはピテカンエレクトロプスのオシャレな人たちも同じだった。
仲間うちみたいな、閉鎖性が強く存在もしていた。
「趣味や情報を共有する集団の内部的埋没」という点においては、「おたく」も「ピテカン」も構造的にはほぼ同じである。と。
大きな意味での「他者」に出会わなくなった。
それは、サブカルチャーが「サブカル」になったことにつなげられる。
内閉がサブカルの特徴なのかな?
THE ART OF NOISE WHO'S AFRAID OF...!を聴く。
80年代の音楽の特徴はサンプリング。サンプラーは当時めちゃくちゃ高かった。
大友克洋の登場
大友克洋が80年代に果たした役割 きわめてリアルな日本人が描かれている。
的確なデッサン力、細い線、細かい描写、斬新なシーン。
「童夢」超能力、超自然的な世界。
そして、岡崎京子「リバーズ・エッジ」
岡崎京子は、絵もストーリーも、りぼんなどの、いかにも少女まんが誌には描けなかった。
それでエロ雑誌に描く。とても辛かった。それでもまんが家になりたかった。
「東京ガールズブラボー」
東京にあこがれる女の子。
2011-01-22 04:07
コメント(0)
コメント 0