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産業革命と万国博覧会 クリスタル・パレス 建築外の思考 [建築の歴史]

1840年〜 鉄筋コンクリート構造という技術が生まれる。
鉄筋コンクリートは、生まれはボート屋の技術だったが、それを見た植木屋が「これは使える」と閃き、そこから建築に応用されるようになった。

鉄骨造(S造)が初めて建築に使われたのが1851年のロンドン万博で(キューハウスは1848年だけど)、鉄筋コンクリート(RC)造が本格的に使われたのがパリ万博(1889)のころ。

18〜19世紀の時代背景はなんといっても産業革命。蒸気機関などの新しい動力に基づいた機械によって生産が行われる。生産力の爆発的な向上。
産業革命期のテンションの高まりが映し出された映画「スチームボーイ」を見る。去年このブログに書いた内容が授業にフィードバックされた。嬉しい。



修復建築家、ヴィオレ・ル・デュクによる鉄柱のスライドみる(古い建物を保存しようという、リノベのさきがけみたいな)先生もいつかデュクについて研究したい、と言っていた。「建築家なしの建築」で有名なSD選書にもデュクの本がある。

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このような生産構造の変革を背景にして、万国博覧会が誕生した。1849年にフランスが提唱したのに、第一回目はなぜかイギリス(1851年、ロンドン)で行われた。

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見学中の遣欧使節団


(休憩) UNO FOGBARのCMでロンドン気分を味わう。遣欧使節団がモチーフらしい


第一回目の万国博覧会が決定する。世界中から色々な発明、技術が集結する。このとき、二つの大きな問題が生じた。

問)世界を収容する建築はいかにあるべきか?
(→世界中から集まったものを入れるものが、〜風であったり、〜様式だったら「フェアじゃないぜ」とdisられてしまう。)
問)簡単に建造解体可能な大建築は可能か?
(万博という短期間のイベントに間に合わすことができ、使わなくなったら壊すことのできる、大きな建築が作りたい。愛・地球博とかもそう)

二つの超難問に応えたのが、水晶宮ことクリスタル・パレス

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水晶宮内部.jpeg
内部に木があるあたり温室からの展開感じる


設計者はジョセフ・パクストン、注目すべきは、彼はピクチャレスクの庭師(建築の部外者)だったということ。温室(ガラス+鋳鉄+プレファブリケーション)を展開すると建築になる。鉄とガラスで出来た建築、水晶宮(クリスタル・パレス)は9ヶ月のスピード工事で立ち上がった。ハスの葉脈からヒントを得た屋根構造は、イギリスの後期ゴシックのキングス・カレッジによく似ている。(詳しくは西洋建築史フライング・バットレスの奇跡にて)


ロンドン南西部にあるキューガーデン。パームハウス(椰子の栽培温室)
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冬のロンドンはとても寒い。キューガーデンの温室の中に入り外を見ると、内部の湿気で曇ったガラスから庭園、外の海が見える。ガラス一枚で隔たれた世界。そもそも温室は世界中の植物を何でも集めようとした当時のイギリスのワガママな情熱があって、せっかく植民地から拉致ってきた植物が寒さで凍えないように、影をつくらないように細く繊細な鉄の表現なった。構造なのか窓枠なのかさえ区別ができないぜ。鉄と植物のモチーフというアールヌーボーへの派生はバレバレだそうである。


万博の歴史
1868 パリ万博 
世界の建築の様式を展示 エレベータの展示とかこのへん。

1876
フィラデルフィア万博
日本の大工仕事が(超リスペクトされて)広く紹介された。今でいうと、「日本のギークやべえ」みたいな感じだったんだろう

1904
セントルイス万博
日露戦争中の日本は無理して作った「セントルイス日本館」を解体する金がなくて、アメリカで成功していた薬学博士・高峰譲吉が、宮大工による解体、輸送、現在地への移築のすべてを引き受けた。

1908 ギャンブルハウス 万博で紹介された日本の大工技術を真似して、北欧の大工が日本の建物を建てた。ロス郊外にあるらしい。バック・トゥ・ザ・フューチャーのドクの家はこれらしい(マジか)

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ギャンブルハウス




1889年パリ万博 エッフェル塔 
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割り箸を割る直前みたいな形をしている(4本)

エッフェル塔はバカに出来ないと中谷先生。
鋼鉄でなく錬鉄でできているから、東京タワーとは違って華奢で繊細。
エッフェル塔の下にいったときの細いフレームワークはすごいスペクタクルらしい。ああ見たい。

エッフェル社には、技術者(ケクラン)と設計者(ソーヴィストル)がいた。ここでエコール・ド・ポリテクニーク(理工)対エコール・ド・ポザール(美術)のデザインの対立があった。ケクランが、強風に耐えるため、4本の棒が上で1つになった割り箸みたいな形を提案したのに対して、ソーヴィストルの案は、塔部下がもっと様式的なアーチ、構造に関係ないデザインだった。最終的に、ソーヴィストルはケクランの案を尊重し、割り箸っぽくなっている。やはりエンジニア魂爆発の時代だった。

エッフェル塔の4階(だけどてっぺん)には、ギュスターヴ・エッフェルの研究室と住まいがあり、彼はそこでその後の生涯を過ごした。今行くと、蝋人形があるらしい。

エッフェル塔がきれいに写っている映像はUNIQLOCKのParis verだと思う。おわり





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