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建築にオーセンティシティはあるのか? [建築の歴史]

パルテノン神殿(B.C.447-432)
パンテオン(120-124)
アヤ・ソフィア(532-537)

同時代における他の古代建築がほとんど廃墟となったなかで、これらの建築が国家や宗教を超えて生きのこった理由はどこにあるのだろうか。生き残った理由の一因に「オーセンティシティ」はあるのか。

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Παρθενών(image source: wikipedia


パルテノン神殿は2回変わり身をしている。古代ギリシャの多神教がキリスト教に取り込まれたのちはキリスト教会堂に転用され(神殿と教会は違う)、オスマン帝国の占領下ではイスラム教のモスクとして使われてきた。戦乱期には火薬庫としても使われ、(そこにヴェネツィア軍が海から放った砲弾がみごとに命中、火薬に引火して全体の2/3が爆破するという)結構な羽目にも合っているけど、今でもアクロポリスの丘に登ればこの目で見ることができる。

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Pantheon source: wikipedia

パンテオンも同様にリサイクルされた。元々は万の神の神殿として建設されたが、ローマ帝国の国教がキリスト教になってからも教会として転用され、今も残っている。(一部の大理石は建材不足で剥がされた)

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Hagia Sophia source: wikipedia

今日の授業で聞いたアヤ・ソフィア(ハギア・ソフィアはギリシャ語)は、もともとはビザンティンのキリスト教会として建てられたが、1457年にコンスタンティノープルが没落すると、イスラムのモスクに取って代わられた。平面の十字形はミフラーブに変えられ、モザイク模様は全て漆喰が塗られ、4本の巨大なミナレットも建った。キリスト教教会からイスラム教寺院の転用はかなり無茶だったと想像されるが、それでも破壊されることはなかった。


これらの名建築に共通するのは「転用」されて生き延びているという点だ。

転用された理由には、巨大さゆえに破壊するのが面倒だったというようなポジティブではない要因もあるだろう。しかし、その建築が美しく「本物だ」と誰もが感じてしまうような、ある種の真実性(オーセンティシティ)を獲得していた可能性もあるのかもしれない。
授業後、芸大の野口先生に質問してみた。

野口氏曰く、国家や宗教を超えて建物が残る理由は3つあるという。
厳密な氏の言葉ではないが、1)破壊するのに手間がかかること(規模が大きく技術力が高い)、2)宗教を塗り替えたという事実の証明として使われたこと、3)建築が力強いほどの美しさを持っていること、この3つの要因があるのだそう。

面白いことに、アヤ・ソフィアはその後のトルコにおいて、新たに建設されたモスクのかたちの「規範」になったそうだ。ギリシャ教会を転用したオリジナルではない「異教の」建築であるにもかかわらず、だ。
「建築のオーセンティシティ」を声高に掲げるのは何だか気がひけるのだが、アヤ・ソフィアが新たな様式になったしまった話を聞くと、さすがに無視することはできない気がしてくる。

「建築に国家や宗教を超えるオーセンティシティはあるのか」という問いに対しては、今のところ「少なくともあった」ということはいえる。しかしそもそも「建築のオーセンティシィティ」とは何なのだろうか。真正性や信憑性やといった訳は分かるようで全く分からない。ホンモノ感?それも嘘くさいし。

ひとまずここでは「本物の建築には美しさがあって、それを建築のオーセンティシィティとする」ことにしてみる。すると「美しさ」を感じるのは個々人の主観だから、客観的なオーセンティシティは証明できない。とはいえ、主観的な「美しさ」が、相当数の人数と時代にわたって人々に印象づけられれば、それは最初に挙げたような建築たちと同様にオーセンティシティを持つことになるのだろうか。

「時代を超え、不特定多数の人々に認められた建物が持つ、美しさを備えた質のこと」?

後日談:2014年の夏にローマのパンテオンに行きました。感動した。あれはオーセンティシィティがあったのだけど、うまく言葉にできない。
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西洋建築史 フライング・バットレスの奇跡 [建築の歴史]

「がんばらないけど見せどころをつくる。100点取ろうとすると飽和しちゃうから。他人が見るときの幅をつくるように」
(設計製図と設計演習と他の課題の三重苦に苦しむ学生へ中谷先生から)


「中世の窓から」阿部謹也 
中世の窓から (1981年)

中世の窓から (1981年)

  • 作者: 阿部 謹也
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1981/03
  • メディア: -

中谷先生が読んだ本の中でもbest10に入る名著。

暗闇時代は必ず中世である。何故ならそういう定義だから。よく分かる過去と現在の2点のことはいいが、その間のよく分からない期間を「中世」と名づけてしまう。そうやって出来たのが中世という歴史ゆえ、中世には元から「よくわからないもの」という概念がある。

わかる過去=古典<わからない過去=中世

それゆえ、近代建築にも古典と中世がある。
丹下健三は古典(分かる過去)だけれど、早稲田の建築は中世(よくわからない)
例えば村野藤吾や、吉坂隆正、石山修武などは、正直よく分からない。
カウンターカルチャーという見方もできるかもしれない

ロマネスクからゴシック 中世へ


バシリカ空間の誕生
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・長方形の平面を持ち、内部にクリアストーリ(採光用の高窓)、列柱のアーケード
・キリスト教が迫害されていた時期、粗末な木造小屋が発生。柱梁のため、日本家屋に似た、母屋と庇
→主廊(NAVE)と側廊(AISLE)が発生。バシリカの起源は木造形式だった。
バシリカの木造が、アーチ、ドームに展開された。木造からレンガへ

ギリシャ、ローマときて→ロマネスク→ゴシック
「ロマネスク」は「ローマ風の」という意味。
「ゴシック」は「ゴード族の(ゲルマン系、より内陸の)」

問)ロマネスク・ゴシックの両者は連続しているのか?その内的な発展性はなにか?
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ロマネスクからゴシックへの構造的発展


ロマネスク:適正な低さ、厚い壁、小さな開口、シンプルなヴォールト、自給自足の場
ゴシック:異様な高さ 薄い壁、大きな開口 複雑なヴォールト、都市の中心


ロマネスク期における「低い天井、厚い壁」が、ゴシック期になると「高い天井、薄い壁」へと変化していく。この構造的飛躍はどのように起こったのか。

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シャルトル大聖堂、ノートルダム大聖堂、 king`s colledge chapel

・ロマネスクからゴシックへの特徴1 リヴ・ヴォールト
ヴォールトを交差することで発見された線は、重たい天井が細いアーチで支えられているように見える。
・ロマネスクからゴシックへの特徴2 尖塔アーチ とにかく高さを追求する



フライング・バットレスの発見 ゴシックの幕開け、大発明。
教会には主廊と側廊があるが、側廊の壁から、側廊の屋根をまたいで主廊の壁を支えるのがフライング・バットレス。言わばつっかえ棒。
ヴォールトはアーチの連続体なので、外に開こうとする力が働く。
主廊の壁が倒れないように、フライング・バットレスがそれを支える。
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シャルトル大聖堂の平面図。フライングバットレス、ありますね。
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ノートルダム大聖堂のフライング・バットレス。ありますね。「隠しの美学」

高さへの追求を可能になる。
高さ、薄さを追求したからこそ、つっかえ棒が必要である。
外部空間で構造を担当し、内部空間から重力をなくす。
バットレスの複雑な表現が、さらに教会建築の構築性を倍化させる。
フライング・バットレスこそが、マジックの種。

全体の構造とすれば合理的だが、断片的には成立しえないかのような空間ー「奇跡としての建築、奇跡のような建築ではなくて、建築で奇跡をつくる。

キングス・カレッジ・チャペル(イギリス)
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壁はほぼガラスだが、バットレスがあるから保っている。
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キングス・カレッジ・チャペルの外観(右はグーグルアース)
ちゃんと、バットレス、ありますね。

・ゴシック建築を支えたもの

1:自治都市の誕生→修道院から都市の公共建築としての教会へ
2:職人層の台頭、ギルド(組合)の誕生、徒弟制度、世襲制、技術の私的所有
3:キリスト教を中心にした国家共同体の表現としてエスカレート

この辺はドラクエの都市と同じ。
ぐるっと都市を囲む城壁があって、中心に教会があって、都市が独立している

・ケルン大聖堂
・シャルトル大聖堂・フランス
・サン・ドニ(フランス)

その後 
ゴシック建築の終わり
新しい修道院運動 貴族的なベネディクト派から民衆宗教へ
民衆に説教場としての均質な空間へ
民衆は高い薄いヴォールト空間の魔法に飽きてくる
イタリアを中心に「ゴシック飽きた運動」が起きる

しかしイギリスだけはゴシックが終わらない。植物的な繊細さへ進化していく。

バース大聖堂、キングス・カレッジ・チャペル
このイギリスのガラパゴスな進化が、後にクリスタルパレスを生んだ。
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近代建築史7(モダニズムの平面、20世紀芸術運動と極北の建築家) [建築の歴史]

(この文章は、中谷先生の近代建築史の授業メモと、自分で調べたことと、自分の意見や思いつきを分けずに書いているので、情報が正確でないこともあります。あしからず)

1 モダニズムの平面

ルネサンス以降、様式は繰り返された。ギリシャ・ローマが反復され、それが飽きられ、問い直され、新しい楕円の運動が起こった。革命期には理想世界の建築が描かれた。建築史学の発達に伴う様式のカタログ化が起こり、複数の様式を取捨選択できるようになった。18世紀は産業革命と万国博覧会の登場により今までの様式に縛られない新しい建築が生まれたが、それは温室の発展型だった。

様式建築の位置は下がり、様式は装飾化した。スタイルではなくアクセサリーのように、パーツで交換可能なものになった。しかし、いざ様式を選択するときに、私達はどうやって様式を比べて選ぶのだろうか。

問)本来比べられるはずのない、様式を比較可能にさせるものは何か?
→答)共通の基準平面を設ける。

同じ皿の上にの置いてしまうということ。リンゴと腕時計は比べられないけれど、質量という基準に即すれば比較可能になる。生徒を同じ教室に入れてテストを受けさせ点数をつければ一枚の紙で比べられるようになる。それでは、その基準となる平面は一体何なのだろうか。その均質な皿(平面)が、モダニズムである。様式の装飾化の背後に見いだされた均質な空間価値こそが、モダンな空間の発生。
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それまで自分たちもこの平面の上に立っていたが、メタな視点を獲得することで比較可能になる。そのときの基準平面がモダニズムである。以後、皿の上の様式ではなく、皿そのもの、つまり新しい価値基準を作ろうとする動きがモダニズム建築の運動になる。

(だからモダニストは過去の様式を清算したいし、世界は新しいモダニズムスタイルで統一されると信じていた。モダニズムの運動が新しい平面づくりの運動であるのは間違いないけれど、その考え方が正しい訳ではない。例えば、村野藤吾は四角いモダニズムらしい建築も作っていたけれど、折衷主義的なやり方で様式建築も作っていた。村野は、モダニズムが提唱するような建築デザインも、またひとつの「様式」であるとして特別扱いしなかった。)(そんなことを長谷川堯さんが言ってた)

2 貨幣とモダニズム建築の運動の類似性

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

  • 作者: 浅田 彰
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 1983/09/10
  • メディア: 単行本


浅田彰の「構造と力」から貨幣の起源について

1 ) 世界に2人しかいない場合
物々交換、もしくは、やるかやられるかの世界

2 ) 3人以上の場合
物々交換の市場が発生する。しかし食べ物は腐るし重たいしので、安定した物々交換をするために価値を肩代わりするもの、貨幣が生まれた。世界を安定させるために王と貨幣が生まれる。

やがて革命が起きて王が死んで、貨幣だけが特権的な位置を占めるようになる。
資本制社会のはじまり。やがてお金を動かすことによってお金を得ようとする動きが起こる。そのブームが弾けとんだのがリーマン・ショックからの世界金融危機。

建築に戻ると、それまで物々交換していたのが、まさに貨幣が生まれようとしているところ。建築は様式の物々交換をするまでも長かったんだけど、貨幣が作れると知ったのなら、様式は皿の上の商品だから今さら作ったってもうダメです。資本家は、世界を律する基準の発見(新しい貨幣作り)をしなければいけない。

というわけで、実はいくつものモダニズム(貨幣=新しいものさし)が作られた。
「お金は信用」ゆえ、みんなに信用されれば牛乳ビンの蓋でさえ貨幣になりうる。
新しい基準づくりの覇権争い。それに勝ったのがミース、コルビュジエ。

3 様々な価値の創造

アメリカ的な新世界と、前衛芸術の動画の対比

To New Horizons

1940年にGeneral Motorsが60年代を予想して作った未来の映像。アメリカ開拓から未来までが映像化されている。すげえ良いセンいってる

ルネ・クレール Entr'acte 1924 それと極地にいるアバンギャルド(前衛)映画
フランシス・ピカビアが原案と美術、エリック・サティが音楽、出演者にはマン・レイ、マルセル・デュシャンといった超・豪華な顔ぶれ




モダニズムの中で、世界各地で、地域通貨が多く誕生した。
「歴史の数少ない(笑)いいところは、建築をとりまく地図が描けるようになること。」全部をマッピングしなくても極を数点描けば他の可能世界も見えてくから、モダニズム建築家の中でも、極北、つまり遠くにいっちゃった人を紹介する。なのでフランク・L・ライトとか村野藤吾とかは、好きだけど今回はやらない。いやむしろやってほしい!(ライトと村野で90分やってほしいです)

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建築とその背後の芸術(サロン文化)建築家は芸術家と付き合いがあった。
背後の芸術も一緒にしてみていく。

なぜ1900年前半はこんなにも多用な才能が爆発したのか。基本的に苦しい時代に素晴らしい芸術作品がうまれるそうで、やはり第一次世界大戦(1914-18)のカタストロフが与えた影響が凄かったのではないか、と。それ言われると今も超ピンチだからこれからいい建築出てくるんじゃないかなんて思ってしまう。震災で宮城の友達の同級生はうつ病が治ったそうなのだけど、震災で建築の方向も絶対変わるだろうし、どうなんだろう。

3ー1 ミース(ミースはやっぱアメリカドルでしょう!)
ミース・ファン・デル・ローエ Ludwig Mies van der Rohe、1886-1969
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1921年 フリードリヒ通のビル(案)
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現在のビルディングタイプである、平面が垂直方向に永遠に積み重なる考え方の提示。
問題は、これを超える空間を我々が提示できないということ。1921年に一気にここまで来てしまった。敷地を考えることなく展開可能であり、資本主義的な考え方に即している。

ミースのドローイング(立面図)の過激さ
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フリードリヒ通のビルの立面図(画像:http://d.hatena.ne.jp/roadrunner0369/
左下のゴミみたいなやつが人です。多分・・
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マレーヴィチ「黒い正方形」

それから40年後に「シーグラム・ビル・ニューヨーク」(1958)で高層ビルのプロトタイプを建てる。去年見てきたけど、めちゃめちゃかっこよかった。
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実現は60年だけど、その考え方は40年前からあった。
その背景にシュプレマリズム(絶対主義)がある。
マレビッチ「白の上の白」(1918)「Less is More」の精神の背景。
僕、カンディンスキー好きだし、抽象表現、面白い。
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ミース、シュプレマティズムの特徴は、徹底した抽象性と、構成(composition)にある。
今までは抽象性のミースを見てきたけど、コンポジションのミースも凄い。

「壁量さえ変わらなければ建物は建つ」という、構造の素朴なルール
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四角形の各辺を少しずつずらして、閉じない空間を作る。「壁量さえ変わらなければ建物は建つ」というルールに則った構成操作。それだけの操作で豊穣な空間が生まれる。
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単純であるが故に、ものすごい発明だった。小さな変化で大きな効果を。「この考え方で一度住宅とか作ってみるといいよ」と中谷先生。楽しそう。

このアイデアが実現されたのが、ミースの集大成であり、バルセロナ万博でドイツの威信が掛かって作られたバルセロナ・パヴィリオン

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ミースは、既存の箱形の家のかたちにちょっとした「形態操作」をすることにより、まったく新しい空間を作った。
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平面図。壁が再配列されている。

ミースは建物だけでなく、柱の形さえ構成操作した。
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壁量を変えずに作った十字形の柱

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ミースの特徴の3つめは、人間がいないということ。構成の手法に人間らしさを感じない。
バルセロナパビリオンも、基壇を作って地面から建物を切っている。大地を縁を切ることによって全く異なる水平な世界を作った。だから神殿っぽい。

ファンズワース邸
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画像:http://designersmansion.info/mies_info.aspx
どう見ても独身女性が一人で住めるとは思えない(笑)
そもそもミースは基本的には人間のために作っていない。
ガラス張りのファンズワース邸、お寺だと考えればいい。

ミースは石工の息子だったゆえの職人的な建築言語を持ち、物質への執着がある。
バルセロナパビリオンの基壇と全く同じ石材がシーグラム・ビルでも使われている。

マレーヴィチ Supremus No.58
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(徹底した抽象性)+(構成)−(人間)=(ミース)

ミースかっこいい!!



3-2  アドルフ・ロース(1870-1933)
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ミースよりもひとつ上の世代で、ミースに比べるとずっと人間らしい。人間らしいというのは、人間にとってあるべき空間というものを根底から考えていたということ。「装飾は犯罪である」という宣言が有名。「装飾やめやがれ」という言い方が江戸っ子らしい過激な物言いだった。ウィーンだけど

装飾やめろ、というのは果たしてどういうことなのか。

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外観はシンプル、というかほとんど何もしていないのに比べ、室内は豊穣な空間ができている。階段と部屋が一体となったような複雜なスキップフロアの住宅を展開していて、部屋ごとに高さが違っている。これはロースが人間の器官の拡張として内部空間を考えていたから。ロースは「洋服と建築は同じだ」と言っていたらしく、人間を包む膜が拡大されるように空間を捉えていた。要はインテリアしかない。ラウムプランは身体性の拡張としての仕組みだった。

ロースは、ダダイズムと関係があった。
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ピカビア ConversationⅡ

ダダイズムは、1910年代半ばから、スイス・チューリヒを中心に世界各地で起こった既成の芸術への対抗活動。当時の合理主義を否定・破壊しようとした。「ダダ」は赤ちゃんの鳴き声がヒントになっている。1920年以降はシュールレアリズムに吸収される。首謀者のトリスタン・ツゥラの家をロースが作った。ロースの作家性とダダイズムがどう関係しているかはうまく説明できないのだけど、当時の合理主義を否定しようとしていた心意気は一致しているか。モダニズム派の空間思考のプロセスが、「構造システム→空間→住み手の行為」という合理的なステップをとるのに対し、ロースはその逆で、「住み手の行為→それに対応する空間→それを支えるものとしての構造」をとっている。なぜなら身体の拡張だから。

身体の拡張としての建築と聞くと、荒川修作を思いします。荒川さん好きです。

荒川さんは「人間は死なない」って言っていて、どういうことかというと、
「死ぬこと=意識がなくなること」と定義したとき、意識を作る要素は自分の外にもあって、そうすると意識が先にあって周囲を認識するのか、環境が先にあってその中にそう認識するような意識があるのか分からなくなる。後者を立場をとると環境だって自分の一部だと考えることができて、意識が偏在しているのならば簡単には「死なない」ことになる。
(池上高志さんが「20歳の君へ」のインタビューでこんな感じの話をしていた)

映画「死なない子供、荒川修作」のDVDが出たので誰か買って


ロースがウィーンにいた事が重要である。と中谷先生。

ドイツ・オーストリアは、イギリス・フランスに比べて発展が遅かった。そのため国内で近代化が起こるのではなく、外部であるイギリス・フランスから近代化がやってきた。近代化という外圧が一方であり、もう一方で地域の伝統がある。そうすると、外部からやってきた産業構造の転換と、国内の伝統をどうやって統合するか、その矛盾に悩む。周縁の国は皆そうなる。日本も同じ。悩む!葛藤があるだけに面白い発展を遂げるから、周縁の国のほうが旅行していて面白いのだそうです。(イギリス・フランスの建築家は地域の固有性とかはあまり気にしなかったのだろうか。そんな訳ではないだろうけど、時代のトップランナーだったから、それよりも普遍性のある建築を追求したのだろう)


3-3  ル・コルビジェ もちろんUSドル。とにかく決めまくった人。蓮舫。
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ミース、ロースがイっちゃった人だけど、コルビジェは現代に展開可能な感じがする。
雑誌を作ったり、メディアへの意識のある建築家でもあった。

「コルビュジエは全般的に天才だったわけですが、彼のやってきたことを振り返ります。彼は社会性も妥当性も芸術性もあった。もともとは画家でもあった。キュビズムの影響をかなり受けている。」

ソヴィエトパレス設計競技案 (1932)のCGを見る。探したけど無かった
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画像: http://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/1_prolog/xcorbu.htm

1万5千人収容の大劇場と多目的ホールを両翼に持った複合施設。大劇場の屋根は放物線アーチからワイヤーで吊られている。構造を外に持ってきて、屋根を釣っているため柱が全くなくて壁もほとんどガラスの劇的な内部空間が生まれる。コルビュジエのファンの丹下建三は広島ピースセンターでアーチを真似している(吊ってないけど)吊り構造は、シャンディガールの国会議事堂で部分的にやってるいるし、丹下も代々木でやった

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広島ピースセンター コンペ案 実際に出来たアーチはもっと小さい

コルビュジエはについては「ギリシャ建築とル・コルビュジエ」で授業ノート書いたのでそちらもどうぞ

鉄筋コンクリートのドミノシステムを1914年に発表
雑誌つくる(メディアを作った初めての建築家)
建築国際会議(CIAM)
五原則 啓蒙活動など、幅広い活動
コルビュジェで20世紀の「建築における言語」が出尽くした。

1930年には、低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとする「輝く都市計画」案を発表。高層ビルを作って空いた場所で共有できるじゃないか、と。集合体のあり方について考えていた

ドミノハウス
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本来は復興用住宅として考えられた。
構造は柱とスラブ(床)が担保している。
よって、住民が壁を勝手に作ることができる。

「これ俺が壁つくったらどうなるかな?」と考えたコルビュジエ。
そのときに生まれたのが近代建築の5原則
1. ピロティ
2. 屋上庭園(実際あんまりないのでは?)
3. 自由な平面
4. 水平連続窓(5の一部だから、原則にする必要ない気がする)
5. 自由な立面

5原則をすべて網羅したらしいのが、代表作の「サヴォア邸」
ドミノシステムを自動車の動線に展開している。
水平な窓は、室内から室外の屋内庭園まで連続的に繋がる。

問)スロープと螺旋階段が二つあるのは、なぜなのだろうか?

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スロープと螺旋階段 = 直線と曲線のコントラスト。→これこそキュビズム。

スロープ ゆっくりすすむ
螺旋階段 はやい

時間空間の違う装置であるスロープと螺旋階段を隣に配置する。
これこそがコルビュジエで、違うシーケンス、異なる言語をバシッと合わせた。
その背景にあるキュビズム
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Pablo PICASSO Still Life: Candle, Palette, Bull's Head 1938

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Georges BRAQUE The Blue Tablecloth 1938

キュビズムは様々な角度からの視点を1つに統合しようとした。
異なるものが併存している感覚がコルビュジエにはある。絵と時間。
映画的な編集感覚をモロにうけている。

スロープは自動車で、螺旋階段は飛行機。
自動車の時間、飛行機の時間、人間の時間を統合した。ここが凄い。これはミースにはできなかった。(ちなみにミースは時間を止める!)

5原則を適用したマルセイユの集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」
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画像 http://yyab.exblog.jp/9186284/ 船の部屋の構造を応用した。住みたい。

その後 1955 ロンシャンの礼拝堂 造形大爆発
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大学三年で初海外旅行にいった中谷先生 ロンシャン まじ感動した 
うすく、うすーく、という流れを逆転させた。壁厚1mほど。

1960 ラトゥーレット修道院 集大成
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中谷先生がパスポートを無くした場所
ル・トロネ修道院が元ネタなんだとか。世界をいかにして調律するかという思想があった。

「多くの技術を統合する職能」建築家と呼ぶなら、コルビュジエはその意味で一番建築家であるように思える。今は <技術> のところに何を代入するのかということも問われているが、まずはバランス感覚が大切。将来、美術館を建てることはなくても、そのバランス感覚を身につけるために、設計課題をやっている(ということに最近気づいた)

ちょうど読んでたアラヴェナのインタビューから一部抜粋
「(中略)もし建築に何らかの可能性があるとしたら、それは総合する力なのだと考えています。そういう意味で、我々は建築の最も重要な核と常に向き合っているという自負があります。デザインの力というのは、複雑な問題を複雑さを保ったまま、過度な単純化を避けつつ扱うことができ、かつ結果的に実社会で使えるものを生み出せるというところにあります。(中略)」
http://www.toto.co.jp/designsolution/special/vol36/index.htm


3-4 アントニオ・サンテリア(イタリア)と未来派

未来派(Futurismo)は、過去の芸術の徹底破壊と、機械化した近代社会のスピードを称えるもの。イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美したり、女性差別などがあった。

スピード!!もっともっと速く!

「われわれは、世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義、無政府主義者の破壊的な行動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視に栄光を与えたい」(未来派宣言)マリネッティ、ヤバイな。

アントニオ・サンテリア「新都市」と題された、工業・機械化された未来の都市が描かれた16枚のドローイングを発表する。
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高層ビルや発電所が中心に描かれる。「けっこういい線いってる」とレーニン先生。
「新都市」については鵜沢隆さんが註釈をつけた原寸カラーの本が売ってるけど、55000円。結局、サンテリアは総帥マリネッティに駆り立てられ、実作を作ることなく、第一次世界大戦で戦死した。


3-5 タトリン、リシツキー、メーリニコフ、ロドチェンコ

ロシア構成主義

ロシア革命を背景とした新芸術運動、ロシア・アバンギャルドは1910年から1920年のわずか10年間は栄えたが、1922年のスターリンがソ連のトップになり「難しい芸術ダメ!」となって抑圧され、1930年代に終息した。産業や労働と結びついた新しい芸術のあり方。
ロシア構成主義は、幾何学的で、立体的で、とにかく新しい。びっくりするくらい新しいのである。未来派はただのふざけた人たちだけど、ロシア構成主義は真面目に社会を変えようとしていた。

・タトリン 第三インターナショナル塔案
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タトリンのこの案は実際には建設されることはなかったが、
この高さ400mの、斜めに渦巻いた螺旋のタワーにはすごいエネルギーを感じる。
「来年の建築展(早稲田の仮設建築つくるグループ)では、これ作ればいいじゃん」(笑)
1/100スケールでも4m(笑)

・リシツキー(グラフィックデザイナー)「雲の鐙」(案)合成
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(写真:http://d.hatena.ne.jp/m-tz/20100107 三松幸雄さんのブログすごい詳しい)
最初は基礎の克服、大地への束縛の克服を考えていたが、そのうち重力そのものからの克服を目指していった。無重力系建築。

・メーリニコフ(建築家)「ルサコフ・クラブ」
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http://subtilitas.tumblr.com/post/2060898823/konstantin-melnikov-rusakov-workers-club

ロシア構成主義は斜めが好き。空中に浮かぶやつも好き。

ロドチェンコ タイポグラフィとかやった。
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ロドチェンコのポスター

無重力系を理想としていたロシア構成主義は、当然ながら宇宙と親和性があった。

アポロ・ソユーズ・テスト計画
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ソ連(右側)のこの自由な造形を見よ!

1975年7月、冷戦のまっただ中に、米国のアポロ宇宙船とソ連のソユーズ宇宙船のドッキングが行われた。米ソ両国が宇宙計画において初めて手を結んだ計画。アメリカのシャトルは流線型から抜けられずにいる中(とはいえ発射するときは空気抵抗があるか)ソ連のシャトルは宇宙人みたいなかわいらしい形をしている。冷戦中だったからなのか、ジョイント部の形が違う。アメリカはねじ込み型、ソ連はガッチャンとはまるような形。だからわざわざアダプターが用意されている。共通のジョイント部にすればいいのに・・。




3-6 バックミンスター・フラー

地球は有限だということを初めて言った人。(以下、来週の授業で)


4 おまけ

建築家マッピングの極北の人たちを、さらに独断でマッピング。

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Y軸が、多くの人に認められたかどうか。
X軸が、美が人間に近いか、遠いかという軸です。どうすかね

「建築史は、スクール・オブ・ロック。悪い事おしえている。」

来週から日本の建築にいきます。

設計やらなくちゃ!
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産業革命と万国博覧会 クリスタル・パレス 建築外の思考 [建築の歴史]

1840年〜 鉄筋コンクリート構造という技術が生まれる。
鉄筋コンクリートは、生まれはボート屋の技術だったが、それを見た植木屋が「これは使える」と閃き、そこから建築に応用されるようになった。

鉄骨造(S造)が初めて建築に使われたのが1851年のロンドン万博で(キューハウスは1848年だけど)、鉄筋コンクリート(RC)造が本格的に使われたのがパリ万博(1889)のころ。

18〜19世紀の時代背景はなんといっても産業革命。蒸気機関などの新しい動力に基づいた機械によって生産が行われる。生産力の爆発的な向上。
産業革命期のテンションの高まりが映し出された映画「スチームボーイ」を見る。去年このブログに書いた内容が授業にフィードバックされた。嬉しい。



修復建築家、ヴィオレ・ル・デュクによる鉄柱のスライドみる(古い建物を保存しようという、リノベのさきがけみたいな)先生もいつかデュクについて研究したい、と言っていた。「建築家なしの建築」で有名なSD選書にもデュクの本がある。

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このような生産構造の変革を背景にして、万国博覧会が誕生した。1849年にフランスが提唱したのに、第一回目はなぜかイギリス(1851年、ロンドン)で行われた。

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見学中の遣欧使節団


(休憩) UNO FOGBARのCMでロンドン気分を味わう。遣欧使節団がモチーフらしい


第一回目の万国博覧会が決定する。世界中から色々な発明、技術が集結する。このとき、二つの大きな問題が生じた。

問)世界を収容する建築はいかにあるべきか?
(→世界中から集まったものを入れるものが、〜風であったり、〜様式だったら「フェアじゃないぜ」とdisられてしまう。)
問)簡単に建造解体可能な大建築は可能か?
(万博という短期間のイベントに間に合わすことができ、使わなくなったら壊すことのできる、大きな建築が作りたい。愛・地球博とかもそう)

二つの超難問に応えたのが、水晶宮ことクリスタル・パレス

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内部に木があるあたり温室からの展開感じる


設計者はジョセフ・パクストン、注目すべきは、彼はピクチャレスクの庭師(建築の部外者)だったということ。温室(ガラス+鋳鉄+プレファブリケーション)を展開すると建築になる。鉄とガラスで出来た建築、水晶宮(クリスタル・パレス)は9ヶ月のスピード工事で立ち上がった。ハスの葉脈からヒントを得た屋根構造は、イギリスの後期ゴシックのキングス・カレッジによく似ている。(詳しくは西洋建築史フライング・バットレスの奇跡にて)


ロンドン南西部にあるキューガーデン。パームハウス(椰子の栽培温室)
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冬のロンドンはとても寒い。キューガーデンの温室の中に入り外を見ると、内部の湿気で曇ったガラスから庭園、外の海が見える。ガラス一枚で隔たれた世界。そもそも温室は世界中の植物を何でも集めようとした当時のイギリスのワガママな情熱があって、せっかく植民地から拉致ってきた植物が寒さで凍えないように、影をつくらないように細く繊細な鉄の表現なった。構造なのか窓枠なのかさえ区別ができないぜ。鉄と植物のモチーフというアールヌーボーへの派生はバレバレだそうである。


万博の歴史
1868 パリ万博 
世界の建築の様式を展示 エレベータの展示とかこのへん。

1876
フィラデルフィア万博
日本の大工仕事が(超リスペクトされて)広く紹介された。今でいうと、「日本のギークやべえ」みたいな感じだったんだろう

1904
セントルイス万博
日露戦争中の日本は無理して作った「セントルイス日本館」を解体する金がなくて、アメリカで成功していた薬学博士・高峰譲吉が、宮大工による解体、輸送、現在地への移築のすべてを引き受けた。

1908 ギャンブルハウス 万博で紹介された日本の大工技術を真似して、北欧の大工が日本の建物を建てた。ロス郊外にあるらしい。バック・トゥ・ザ・フューチャーのドクの家はこれらしい(マジか)

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ギャンブルハウス




1889年パリ万博 エッフェル塔 
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割り箸を割る直前みたいな形をしている(4本)

エッフェル塔はバカに出来ないと中谷先生。
鋼鉄でなく錬鉄でできているから、東京タワーとは違って華奢で繊細。
エッフェル塔の下にいったときの細いフレームワークはすごいスペクタクルらしい。ああ見たい。

エッフェル社には、技術者(ケクラン)と設計者(ソーヴィストル)がいた。ここでエコール・ド・ポリテクニーク(理工)対エコール・ド・ポザール(美術)のデザインの対立があった。ケクランが、強風に耐えるため、4本の棒が上で1つになった割り箸みたいな形を提案したのに対して、ソーヴィストルの案は、塔部下がもっと様式的なアーチ、構造に関係ないデザインだった。最終的に、ソーヴィストルはケクランの案を尊重し、割り箸っぽくなっている。やはりエンジニア魂爆発の時代だった。

エッフェル塔の4階(だけどてっぺん)には、ギュスターヴ・エッフェルの研究室と住まいがあり、彼はそこでその後の生涯を過ごした。今行くと、蝋人形があるらしい。

エッフェル塔がきれいに写っている映像はUNIQLOCKのParis verだと思う。おわり





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近代建築史「折衷と廃墟、19世紀英国」 [建築の歴史]

前回の授業で見た『去年マリエンバートで』の解説から。



--まるで床が砂か砂利か敷石であるかのように、その上を私は歩いてきた。 廊下を歩き、この建物の広間や回廊を通り抜け、バロック風の巨大で不気味なこのホテル の廊下は果てしなく続く。 静かな部屋で足音は厚い絨毯に吸い取られ、歩く当人でさえも何も聞こえない。 まるで耳自体が・・・。 廊下をずっと歩いていけば、古い時代の建物の広間や回廊をよぎる。 大理石、黒いガラス、黒っぽい絵、円柱、縁取りのある一連の扉、一連の回廊、交差する 廊下。 廊下は無人の広間に通ずる。広間は古い時代の装飾過多。 無人で静かで、冷たい装飾が過剰で、化粧漆喰や、くり形の鏡板(字幕から引用)--

映像、音声(と編集)の「非」同期性が映画の本質のひとつ

「非」同期とは、映像とBGMがリンクしていない、ということ。
たとえば音楽を変えることで、同じ映像でも10年前を感じさせたり、パリの映像でありながら日本を表現したりできるということ。それらの編集で、映画にしか出来ない表現ができる。
映画を撮るときに、ラストシーンから撮ることだって演劇には出来ないことだし、役者の時間をかく乱させる、というのも映像ならでは。

映画監督アラン・レネは「非同期」の天才だった。
『24時間の情事』 時間のマジックとはこのことらしい!

(めっちゃいいとこ拾ってきた!)
冒頭の「女」が鏡に向かって話すシーン。鏡に映る「女」の映像と音声の非同期。ここで人格がスイッチする。
4:50から「女」が広島の市街地を歩くところでは、故郷ヌベールの映像がカットインされて記憶の同時併存性が表現されている。(というか、1950年代の広島というだけで貴重なのだ)

「去年マリエンバートで」は、そのRemixを徹底的に行い4つのレイヤー(1.現在、2.Xの回想、3.Aの回想、4.過去)を複雜に構築した。僕は二回見ても分からなかったけど、そういうことなのだ。

学生の「去年マリエンバートで」の感想に「死後の世界みたいだ」という感想があった。
それは面白い視点で、様式は(死なない幽霊)だから、幽霊のリミックスが今日の「折衷主義」と深く関係している。

というわけで、第五回 近代建築史「折衷と廃墟 19世紀英国」

1:Eclecticism 折衷主義 折衷主義はとんでもない文化。BLADE RUNNER

和洋折衷の「折衷」 和食も洋食も中華もmixする日本の食卓のように、19世紀になると、建築様式が選べるようになった。ギリシャ、ローマ、ゴシック、バロックと、幽霊を召喚。
様式を取捨選択することで、時代の相異なり矛盾する要素までをもまとめられるようになったので、
エディット、つまり編集の技術こそが力量の基準になるようになった。
「選択可能性と均質性、建築における交換価値」
(交換価値とはマルクス経済学において、市場におけるそのつど決定される価値のこと)

折衷主義的なSF映画 "BLADE RUNNER1982"


それまでのSFでは、ファッションも建築も、あらかじめ想像された「未来像」があった。しかしブレードランナーでは、あらゆる時代のファッションがごちゃ混ぜであり、建築も折衷で、「どの時代か分からない」。モダニズム超えてポストモダンまで一気に来てしまった。

折衷主義の建築は、ジョン・ソーン美術館(自邸)
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外から見るぶんにはふつう。
(画像:http://homepage.mac.com/kch_kato/paris/photo/londre-photogallery.html
ジョン・ソーン(1753-1837)、彼は折衷主義のマスター。丹下健三みたいなスター。
ソーン博物館には、あらゆる様式がごちゃ混ぜになっている。
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ギリシャみたいな柱もあれば、
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わりと最近ありそうな部屋もあったり。
ほんとに同じ屋根の下か?
授業で見たスライドはもっと凄かった。磯崎新 篠山紀信「建築行脚11 貴紳の邸宅」という本に詳しい写真がある。

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遷移図。最初に左の家を買って改造して、中の家も買って壁を抜いて、最後は三軒分のボリュームになっている。ソーン自邸は、自邸から博物館へリノベーション繰り返すうちに公共性を獲得していった。いろんな様式を分離させながら混在させている。ソーンはモダニストでもあったから外見は落ち着いている。上品な枠組みを作って様式のカタログを展示。しかし、どれだけ金がかかっているんだ。

地下一階 平面
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一階平面
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二階平面
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なんともインパクトのある平面図

絵画室、何層にもなる絵画扉。絵画天井がすごかった!天蓋に薄いフリース。吹き抜け。
地下は古代ゾーン。エジプトの棺からお面、色んなものが集められた。

ソーンは自邸を画家に描かせていた。
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ちなみにこれはイングランド銀行。多摩美の図書館みたい。
ジョン・ソーンは辰野金吾でもあった。

問1 なぜ異質な様式を混在できるのだろうか。その方法とは何か

新聞紙について。アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソンは、「新聞の発生が国民国家の形成だ」と言った。国民国家は、同じ時間・空間を共有する我々がいると感じることで成立する。その例として、新聞を挙げている。「新聞を賑わすさまざまな事件は相互に何の脈絡も無いはずだが、しかしそれらが同時に並べられることによって、ある一体的な空間が生まれてくる。」

新聞のように異なる事件(=様式)をエディットしたのがジョン・ソーン邸ということなのだろうか。あらゆる様式がユークリッド平面上に置かれる、それが折衷主義。その均質なユークリッド平面こそがモダニズムゆえに、モダニズムは必然だったのだろうかと思わざるをえない。


2ピクチャレスクと廃墟
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The Chancel and Crossing of Tintern Abbey, Looking towards the East Window 、J. M. W. ターナー、1794年

ピクチャレスクとは、18世紀にイギリスで流行った美的概念。
人工美でなく、自然美を重視した。しかし実際は人工的に作られた自然であって、どこか矛盾している。このころから、建築に造園が介入する。「不規則さ」「絶えなき変化」が特徴の1つでもあり、アルゴリズミックデザインとかもここから派生。

「sublime(崇高性)」が背景にある。
私たちは、圧倒的なもの、とてつもなく大きなものを目の前にしたときに、圧倒され、ふと美を感じてしまう。
カントの「美とは目的なき合目的性」とは異なる「美」の定義。
そういえば、ダンサー・振付家の山田うんさんが即興で踊るダンスは、目的がないんだけど必然があるように見えた。目的なき合目的性ってこれか!って思った。

問2 ピクチャレスクの庭園には必ずといっていいほど廃墟がある。なぜか?

→人間の手を経て、自然化したものでないと、自然と手を繋いではいけない。
人工物=ダメという美意識の中で人工物を作る場合には、人工物を「自然化」するしかない。理論上はそうなる。人工物が長い年月を経て自然化したものは、すなわち廃墟である。
デザインされていない庭園、ピクチャレスクは日本庭園から大きな影響を受けている。
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ピラネージの銅版画「ローマの景観」
ピラネージの描くローマは、かつての建築が遺跡となり、半分は地中に埋まっている。昔の人工物が「自然」になっていて、それに今の人工物が寄り添っている。この在り方はピクチャレスクに大きな影響を与えた。

そうやって考えると、今の植物と建築の問題も、200年前からあった。
ビエンナーレ日本館の植物園や、現代のエコロジーの問題にも繋がる。
現代との繋がりが見つかると楽しい。

ここで、ジョン・ソーンのお抱え画家だったジョセフ・マイケル・ガンディの「イングランド銀行」の鳥瞰図を見よう。
イングランド銀行.jpg
「1830年のイングランド銀行」
完成したばかりなのに、廃墟になった時の姿を描かせるというのは、完全にピラネージの影響だ。

それを真似したのが磯崎新の「つくばセンタービル」
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画像:http://d.hatena.ne.jp/ken106/20110929
設計と同時に、廃墟になったセンタービルの模型も想像して作った。廃墟志向の表れ。本人も、参照したと言っているそうだ。


そして!再び!ブレードランナーのラストシーンを見る。


死なないレプリカント(人造人間)が人間を助けて死ぬ。
繰返す様式の幽霊が、人間に「生きろ」といっている。
レプリカントの死は、折衷主義の終焉を暗示している。ちょっと納得した。
こんなことを考えながらブレードランナーを見る人はきっと少ない。

来週からモダニズム
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近代建築史その3「新古典主義と均質な世界」 [建築の歴史]

1700年代に世界では何が起こったか。
1775年からアメリカ独立戦争が始まり、1789年からフランス革命が起こった。変革の時代に建築では何が起こったか。新古典主義

「古典」という日本語を作った西周という天才。「哲学」「藝術」「理性」「科學」「技術」も西周が作った。古典=古さの典(型)=様式
新・古典とは、再び繰り返される古さのタイプ。ルネサンス以降に歴史が反復されることが言葉でも分かる。

新古典を見ていくまえに、その前の流れを見ておく。
先週バロックの運動性と多中心(楕円の焦点)による世界の構造を見た。
その後、イタリアで花開いたバロックがスペイン・ポルトガルに伝わり、過剰な装飾が発展する。
スペイン・ポルトガル周辺における様式の付加性。田舎にある派手な看板と変なラブホテル。ある形式が伝わる過程で、田舎の価値観が付加されて超ダサくなる、よくある超常現象。16世紀は大航海時代だったゆえ、植民地のメキシコや南米、フィリピン等へ広まった。海を越えた。周縁でさらに派手に(過剰な装飾、極端な造形、鮮やかな色づかい)になった様式を「ウルトラバロック」っていう言うらしい。材料も現地のだし。
大学1年生の夏にメキシコ行ったときに「ヨーロッパぽいけど何か違う」と思っていた背景が分かった。中谷先生はあんまり好きじゃないって言ってたけど、僕はメキシコのカテドラルとか好きです。
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メキシコのカテドラル。朝よく見てた。カテドラルの裏通りは治安が悪い。

そのころフランスではロココ。漫画ハチクロで竹本を苦しめたロココ
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バロックにおける奥行きのある過剰な装飾を平面に圧縮したもの。焦点が定められない。
雲。モコモコ。ロココは特殊すぎてややこしいからこの授業では深追いしない。
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ロココと石上純也 「重力にさからうというテーマ」無重力状態への「心意気」が共通点としてある。糸のように細いカーボンファイバーの柱が24本並ぶ、幅、高さ約4メートル、奥行き約13メートルの仮設建築。石上さんは「Architecture as Air(空気のような建築)」ロココは「軽く薄く、でも装飾は絢爛に」。正規ゴシックから後期ゴシックへの過剰な装飾、そのあとロココで力が抜けた運動。しかし結局また飽きてくる


いよいよ
新古典主義=ネオ・クラシシズム「ここに世界あり」
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大英博物館
ジャイアントオーダー(パーツでかい)。三階までぶち抜きの柱。ギリシャ・ローマの再来(ルネサンス=classizm)の再来。三周目の様式。ロココが過剰な装飾性や軽薄性、官能性の時代だったから、エロの反動として、次はもっとまじめで厳粛なキチッとした感じなったのか?エロは再び繰り返される。モダニズムは、ネオ・ネオ・クラシズムにあたる。

時代 反復する様式の分類は主に二つ

1 普遍性を求める 原理的、プリンシプルな構成原理、だれにでもわかるような。ズバリ、ルネサンス
2 固有性を求める ゲルマン的なものなど、土地性や、固有の性質にこだわる。バロックがそれ。
周縁にいけばいくほど、中心から離れるほど過剰になる。ネオ・クラシシズムは1の「普遍性を求める」方。当然ウルトラバロックは「固有性を求める」ほう。様式が相対化する。ぼ300年くらい生きてたら、「また藤本かぁ」みたいになる(笑)
「様式は死なない幽霊のようなものだ」


新古典主義の頃の背景
啓蒙時代としての18世紀。革命と啓蒙。啓蒙は世界同時多発的に起こった。職人的イタリア、おしゃれフランス、カントのドイツ、イギリスへ。国民国家。当時の日本は「藩」の時代から「日本」が出来た。「国学」という(日本をよくしようという)右翼思想。国単位としての統一とか、フランス革命。王を殺して、あらたに「国家」ができる。知識を共有しよう、という動き。みんな頭よくなろうぜ!という時代。哲学や科学が発展。当時のヨーロッパの識字率は20パーとかそこらだった(日本すごい)。「国語」というものを原理的に作る。日本語の五十音順は本居宣長が作った。メディアによる知識の解放。国語辞典ができたり。ダブララサ、すべてを白紙へ。百科全書の登場。「これは世界です」という平面的に世界を再配列しようとする考え方。

ショーの製塩工場 クロード・ニコラ・ルドゥー
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平面図
中心に工場があって、円周上にはたらく人の住居がある。「工場も建築だ!」というエンライトメント。バックヤード(裏庭)まであるのが秀逸。そこで家庭菜園した。どうやったら共同体がいきていけるのかというのを構想した。超・妄想力。ある種のユートピア。正面の入り口はグロッタ(洞穴)=時空を超えて、不思議の世界への入り口。柱がレゴみたいにオセロを積み重ねたような、薄い円柱と四角い薄い柱の連続。外見に比べ中はボロい。レンガむきだしみたいな。外側と内側のギャップ(=感動する建築の条件のひとつ)マニエリスムと違うのは、遊びすぎてないとこで、大人な感じがある。成熟してる。中心、市民、菜園(畑)が放射状に成立していく。まさにハワード田園都市の縮図みたいな感じ。菜園の菜の花の感じとか、不思議の国っぽい、ユートピア的な感じあるなあー。周囲から隔絶した理想都市、のちのハワードの田園都市構想とかにも繋がる感じ。ちょっと誇大妄想な感じが怖くもあり面白い。

ルドゥの描いたドローイング
旅館、修道院、使用人の家、はては平面図が男性器の形をした売春婦の宿(笑)、etc... 建築学生みたいに、さまざまなビルディングタイプを考えて提案しまくる。幾何学に頼って作られている。お台場のフジテレビみたいなのもあった。さまざまな人間社会に形を与えようとした。革命期の建築家はやっぱりどこかラディカル。

フランス革命に従事した可哀想な建築家・ブレ 
円錐状の死者の記念堂(写真なし)。ローマのビラアドリアーノのモチーフの上に巨大な円錐をのっけちゃう。断面がすばらしい。
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ニュートン記念館 ニュートン記念館も断面が球体で、昼はプラネタリウムで中に夜を表現し、 夜は中央の光源を囲むように衛星を配置して宇宙を表現。 (注:実在しません) まとめ 1網羅性 あらゆるものをデザインしようとした。 2幾何学性 丸とか三角とか、原理的な設計手法 3理想一世界 ユートピア的なもの そして 4建築史学の発達が関与 建築史の始まり エコール・デ・ポザール(フランスの美術学校)と、エコール・デ・ポリテクニーク(フランスの理系エリート学校)の思想について(ちなみに、ドガ、モネ、ルノワールはポザール出身で、ポアンカレ、フレネル、アンペール、ポアソン、カルロス・ゴーンはポリテクニーク出身) 藤村龍至さんの、判的工学主義もはポリテクニーク的。村野藤吾はポザールで、吉阪隆正さんはポリテクニークらしい 工学主義と批判的工学主義みたいなもん(あんまり分かってない) ・フィッシャー・フォン・エルラッハ「歴史的建築の構想」 (ルドゥはエルラッハを見て「すげえ!俺もやったろう」って思ったに違いない) ファイル-Essaisurlarchitecture.jpeg ロージェ「建築試論」(ルドゥはこれを見て「やっぱりやりすぎは良くない」って思ったに違いない)初源の小屋。建築は四本の樹に柱が立てかけられられたシンプルなもので、オーダーなんていらないシンプルなものよ、と。オーダーが右下に追いやられている。しかし、こんなに都合よく四つ角に樹が生えてないだろう。 ken_hikaku350.gif デュラン「集録」ギリシャからルネサンスまでの建築を等価値に並べる。 グラフィックが格好いい。その背景にある百科全書(フランス)知識解放。フランス革命期はいろいろクールなことがおこった。百科全書はインターネットの発明みたいなもの。デュラン=ジョブス説? ドイツ、ベルリンの遅れたルネッサンス なんとなく新古典主義を実現した、カール・フリードリヒ・シンケル 住居における、アシンメトリーの採用 Berlin-old-museum.jpeg アルテス・ムゼウム アンビルド案のドローイングがすごい。「今は建たずとも、いつか実現できるだろう」という、当時のドローイングの影響力。ある世界の固定が18世紀の建築家のドローイングだった。理想世界を表す時間的固定の中で、建設行為はそのヴァリエーションである。というのが当時の建築家の姿だった。影響力すごい。やはり啓蒙で革命思想。 ルドゥやシンケルは妄想ばかりしていたが「妄想」がちゃんと「構想」になっている。実際に作っている。そのエネルギーがすごい。メタボリズムって今見るとダサいけど、黒川紀章は実際にカプセル作ったし、菊竹清訓も作ってる。世界を構想しながら実際にどんどん作る姿勢にエネルギーがあって尊敬する。

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近代建築史アゲイン(2) [建築の歴史]

マニエリスムからバロックへ

ルネサンス(旧世界)→(飽きた・・)マニエリスム→(新しいパラダイム)→バロック(新世界)というパラダイムの転換を見る。
ギリシャ→ローマ→ロマネスク→ゴシック→ルネサンス→今ココ
現代もある意味マニエリスムで、建築と社会が乖離している


1 マニエリスム(=アンチルネッサンス)


ルネッサンスが徹底的に飽きられた特殊な時期。マンネリの語源でもある
極端な遠近法と明暗のコントラスト、不自然な人体プロポーション、複雑で謎めいた主題表現、など、共通して奇怪ともいえる雰囲気をもっている。
マニエリスムは、一言でいうと。ミステリアス。世界ふしぎ発見。
またはボーイズ・ラブ的なエロスがある気がする。

パラツィオ・デル・テ
設計:画家・ジュリオ・ロマーノ(そのころのアーティストはなんでもやった)
パラツィオ・デル・デ全体像.jpg
ずれたアーチ.jpg
中庭への展望.jpg
特徴1「形式の崩壊」
ルネサンスはお手本をギリシャ・ローマに求めた「引用的な」想像であった。
引用であるから、伝言ゲームみたいに、誤差(変形)が生じる。
しかし、マニエリスム期には、その変形を楽しむようになる。
オーダーからの逸脱

・愛人との愛の巣
・三角形の切り妻型の屋根はギリシャ風
・アーチの根元が4本に分かれている
・扉がふたつあるけど、開くのは片方だけ笑
・アーチのキーストーンが梁を貫いている
・絵的なお遊びが立体になっている

ここまで読むとマニエリスムは、単なる悪ふざけのパニック映画のように見えるが、ルネサンスの世界観に対して「それは違うんじゃないか」と問い直し反抗した時代でもあった。実際に「時間というもの」が建築表現に初めて取り入れられるようになり、のちにバロックというパラダイムの転換が起こり、新しい世界になった。
今でいうとマニエリスムは「原発デモ」みたいな感じなのだろうか。パラダイムが変わればいいのだけど。例えば60年代の学生紛争も、ただ反抗したかっただけではないだろう。例えば「『知』というのはもっと広がってるのではないか?」とアカデミズムの権威としての大学へ反抗した。(ちょっと脱線)

特徴2「時間の介入」
パラツィオ・デル・テで出現した建築における時間の表現

・秘園 ポンペイの廃墟のような、時間の流れを表現したシークレット・ガーデン♡
・グロッタ(ほら穴)(グロテスクの語源)はローマ時代へのタイムマシーン
パラツィオデルデのグロッタが、建築における初めての時間表現。建築でないものが、建築にはりついた感じ。「薄暗い小道を抜け、角を曲がると・・」みたいな小説的なシークエンス。

「形式=いつでもどこでもその形」というモデル、つまり時間が含まれない。建築にどうやって「時間」を取り入れるか、という問題はこの時期から考えられた。


2 バロック スペイン語で「沈んだ真珠」


クアトロフォンターネは宝石のような建築。宝物なんだけど、それらにディストーションがかかった運動のある世界。マニエリスムはルネッサンスの悪ふざけだけど、バロックで遂にルネッサンスと対比される世界が生まれる。一番大事なのは「運動」時間を動かす、そういうものが目指された。端的にいえば、楕円。楕円=運動性の象徴 なぜ楕円か?そういえば車のエンジンも楕円

「サン・カルロ・アッレ・クァトロ(4つの)・フォンターネ(泉)」/フランチェスコ・ボッロミー二
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San Carlo alle Quattro Fontane.jpeg

スピードのあるペリメントの曲率。図像的に統合性のある、構築された世界。
遠近法やトロンプユを用いながらも、それらは小さい空間を生かすためとして上手く利用している。
F1みたいな世界。スィーっ!中に入ると、自分が魚になったような感じになる(らしい)




3 ケプラー・宇宙・都市

問:動きのある楕円のような歪んだ建築が、なぜ説得力をもったか。

「建築は、基本的に時代に寄り添うものであるから、社会にその背景がある」

当時、「惑星は楕円軌道を回る」というケプラーの第三法則が明らかになった。
太陽の位置は楕円の中心ではなく焦点のひとつである。中心はひとつでない。オースマンのパリの都市計画は、庭園の中心をいくつも作る。「それを楕円でつなぐことによって」都市が意味をなす。多中心によるネットワークが世界を描いた。その結果「都市」とその周りの「郊外」という都市構造が生まれたり、植民地支配(=我々が領地を広げても、パリと領地との関係性が1つの世界だ、という論理)も、楕円すなわち衛星としての概念が支えてしまう。

来週はネオ・ゴシック
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近代建築史手帖 [建築の歴史]

しばらく更新していなかったのですが、ひさしぶりに書きます。
本読んでばかりでアウトプットしないと体調悪くなるみたいです。
とにかく指に任せて猛スピードで書こうと思います。振り返らない。立ち止まらない。
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さて、僕の2010年の後期は「近代建築史・電子工作・文化構造学部」の三部作だったわけですが、
その近代建築史の授業ノートが返却されたので載せます。
中谷先生の「近代建築史」では、授業中にとったノートを提出してそれが成績評価対象になるのですが、
ぼくはノートではなく、マックブックで授業中の言葉をひたすらタイプしていました。家に持ち帰り編集して、調べて画像足して、ブログにアップしていました。毎週。結構タフな作業でした。

それらをエバーノートでまとめて、印刷して製本
して本にしました。表紙は「美術手帖」の真似です。
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こんな感じにまとまっています。内容は近代建築史ブログとほぼ同じ内容です。
ページ数にして実に66ページになりました。小さなブックレットですね。自費出版です。

大学の設計課題も含めて、今までで一番時間と労力が込められた成果物になり、自分の宝物にもなりました。余白を多めにとっているので、これからの授業中にはこれを参照したり、これにメモしたり、まだまだ発展途上であってほしい「近代建築史手帖」です。

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近代建築史14 日本の住宅 1970年代以降 [建築の歴史]

今週でおしまい。最後は70年代。超不況の時代の建築(オイルショック、公害)

CAPTIVE UNICORN GREEN

60年に交差した日本近代とモダニズムの統合が再び離れ、関係なくなってしまう。

70年代。五月革命(学生運動)、環境汚染、原油価格の高騰。
そろそろ「近代ヤバいな」って気づきはじめた、そんな時期にでた二冊の本
「建築家なしの建築」
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「ホール・アース・カタログ」(2010年2月号 の建築雑誌を読むべし。)
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1 アンチ・モダニズム
2 反・形式主義
3 DIY志向
4 地域主義

↓(それらを前提した考え方が)
「ポスト・モダニズム」

危機。問題があるところには良い建築ができる。
Crisis is friend.
問題がなければいい建築はできない。
ものつくるときは危機じゃないといけない。危機じゃないならものつくるべきじゃない。


1 アンチ モダニズム

1972 毛綱モン太「反住器」
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(画像 http://bit.ly/gsvYkU
三つの立方体を三層の入れ子にした形。機能に対するカウンターパンチ。

安藤忠雄 「住吉の長屋 (1976)」
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(画像 wikipedia.org/)
三軒長屋の真ん中の1軒を切り取り、中央の三分の一を中庭とした鉄筋コンクリート造りの小住宅。外に面しては採光目的の窓を設けず、採光は中庭からだけに頼っている。玄関から内部に入ると居間があり、台所や2階に行くには中庭を通らねばならない。(wikipedia)
大阪、長屋では傘さしてとなりの部屋行くとかはよくあること(って行ってた気がする。あんま覚えてない。)

藤井博巳 「宮島邸」
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画像(http://20thkenchiku.jugem.jp/?eid=160
グリッドのやつ。

鈴木恂 「KIH702 (1970) 」かっこいい!!
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画像(http://msuzuki-ams.com/works/w_works/7004kih.html
荒々しいコンクリートのフォルマリズム 太陽と建築
↑このへんがフォルマリズム。時間を止めたような感じ?
鈴木恂さんはメキシコに行ったあとから太陽の光を意識したとか。


2 セルフメイドムーヴメント 自分の手の届くレンジでどれほどまで作れるか

川井健二 「川井健二邸」
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(画像 http://kubokenn.doorblog.jp/ )
石山修武「幻庵」
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(画像 http://kubokenn.doorblog.jp/ )

石山修武の書いたアクソメ(立体図面)もレシピっぽくて、DIY精神が感じ取れる。

「開拓者の家」
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画像http://bit.ly/gfgtSK 
ジブリっぽい トトロ未来形?


3 地域主義

象設計事務所「名護市庁舎」1981
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(画像 http://www.arch-hiroshima.net/a-map/okinawa/nago.html
当時はエアコンなしの空気の流れによって空調をやろうとした。

その原型となるのが吉阪隆正
「セミナーハウス」1976
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( 画像 http://www.ap-fd.co.jp/semina.htm
建築家によって集落が出来るのか?という試み。

TANGLED UP IN GREEN

勇敢なモダーンは終わった。
自然といったものを如何にして展開するか。
で、もうすこし抽象的な表現に変わる。

原広司「原邸」 住居に都市を埋蔵する。家の中に街並みを作る。
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伊東豊雄 「中野本町の家」
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(画像 http://bit.ly/dTZqYw
(画像 http://bit.ly/4ASDXv
あいまいな形。壊れた後も、そのままの姿のような。人間がいない感じ。

山本理顕 「山川山荘」
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(画像 http://bit.ly/hjeGls)
吹きっさらしの中に住居が分散して展開。森山邸の原型みたいなもの。

坂本一成「水無瀬の町屋」
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画像( http://archiforum.exblog.jp/
中谷先生も大好き。近代建築史の中で一番好き?
駐車場と隣りの窓がちょっとズレてる。
こういうのはデザインして出来ることじゃない。
自然が作ったかのような、「ズレ」のセンスの怖さ。
これまでの近代建築の設計手法とはマッタク違っている。

篠原一男「代々木上原の家」
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画像( http://bit.ly/gpRVpD )

「緑への認識」

人間のいない自然、対して、人間に快適な自然

人間に快適な自然

後期ゴシック、ピクチャレスク
ネイチャーがつくった建築っぽく
人間がつくった鋭利な建築が自然に埋没
そこにいる人々、楽しそう。

対して、人間がいない自然。

西沢立衛 と「切花」
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(画像 http://www.ryuenishizawa.com/ )

玲瓏なきれいさ。奥のほうに幽霊がいそうな感じ



critical greenizm

藤森照信「ニラハウス」
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(写真:増田彰久)
http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/0ia0/104120/ 
ジブリが持つ「ユートピア」と「デストピア」

自然が犠牲になってる。儀式的な建築

植物を「殺す」

宮崎駿さんの「こだま」と、霊の高さ
高杉庵 は霊の通り道?

鈴木了二 金毘羅 芝生のなくなった事で迫力のある建築ができた。

植物の持つ暴力性(屋久島行きたくなってきた)

我々の世界を取り巻く要素はなんなんだろうか。

建築が未だ扱っていなかった、霊性のようなものを考えるべきではないか。

最後に、
・EVERYONE IS AN ARTIST BUT FEW CREATE ART BILLY KLUVER
・建築家は資格ではない。周囲から認められた、あるいは自称の、ある活動の代象者である。

建築は動詞的なもの。構成方法。
それをいかにして捕まえるかに大学のこり2年間(あるいは4年間)が掛かっているのでは!

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「進歩と調和の発明」丹下健三について [建築の歴史]

「進歩と調和の発明」丹下健三について

丹下健三
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戦後の経済成長にシンクロしたのが丹下健三だった。
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この図の交点が丹下健三です。タイミングもバッチリだった。

大阪生まれ
東大 コルビュジエに傾倒
風俗通いしてたとか、イケイケだったという話も。
東大で「丹下研究室」をつくり、槇文彦、磯崎新、黒川紀章、谷口吉生らを輩出した。

丹下健三といえば、フジテレビや都庁が思い浮かびます。
しょっぱなから余談ですが、僕と丹下(都庁)の出会いは稲中卓球部です。小5。
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今週、パスポートの更新に都庁見て、昨日、ゆりかもめでフジテレビ見ました。
都庁 かっこいい。
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フジテレビ
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国連大学
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確かに、巨大ロボっぽいような気もします。
(余談おわり)

丹下健三の卒業設計を見る。

パースの真ん中に建物がない。門としての建築。建物に切り取られた何もない空間を主役にしていた。
学生のころからそれを意識していたのはすごいのでは。

1953 今はなき丹下自邸
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木造のサヴォア邸みたいな見た目 かっこいいよね。とレーニン先生。
たしかに凛とした感じがするような気がする。
中心で構造を担保し、そこから広がるように構成するコアシステム 樹のよう。

丹下健三は、日本のあらゆる庁舎を作りました。

東京都(旧)庁舎・・は、画像ないので飛ばしまして、

香川県庁舎
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一昨年の夏に自転車で四国まで行ったときに訪れました。
これもコアシステム。あとピロティもある。
日本建築の伝統である木造建築の木組みの美しさをいかにコンクリートで表現するか。
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ジャジャジャジャーン!ここの梁の細さね!!雨水を流す管もうまく収納している。
コンクリートの梁は、当時の建築技術の限界の細さだったとか。

このあと出てくる広島平和記念資料館もピロティが出てくる。コルビュジエに傾倒していたということを頭の片隅においておくといいかも。卒業設計もそうだし。

東京計画1960
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(画像・10+1web siteより http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/2010/11/issue2.php )

丹下は1961年に丹下健三・都市・建築設計研究所を設立。同年、海上都市計画「東京計画1960」を発表します。
東京湾の上に巨大なハイウェイをドガーンと作り。
東京は、皇居(?)を中心とする中心型の放射状の都市ではなく、線形で並行なシステムになるべきである、という提案。
実現こそされなかったが、木更津と東京を結ぶアクアラインは間違いなくその影響を受けているだろう。都市の新陳代謝。METABOLISM
「建築がこれからの未来をつくるんだ」という、力強い自信を感じる。そういう時代だった。

代々木体育館
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日本の近代建築にランキングがあるなら、これは間違いなく上位ベスト3に入るそうです。
瀬戸大橋に屋根をかけたような、吊り橋と同様の吊り構造の技術を用いており、屋根全体が吊り下げられています。観客を競技に集中させるために考案された「内部に柱を持たない」珍しい構造の建物、だそうです。
20080328_yoyogi-g.jpg
中はこんな感じ

東京カテドラル
HPシェルの象徴的表現

山梨文化会館
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分散コア 幾つかの中心をつくり、それを廊下でつなげることで建築できるじゃん、って考えかた。

その後はしばらく海外で仕事をする。

で、大阪万博、会場マスタープラン
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お祭り広場ドーン!


2 外傷的都市と失調的時間

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広島平和記念資料館と、都市の先行形態とそのデザインについてのお話「先行形態論」都市のゴースト
中谷先生が大阪時代に、昔あった古墳の形が生き残っていることを発見した話。
中谷先生は、現在人の「なう」よりももっと長い射程で「なう」を捉えているのではないか。
「ろんぐなう」や「過去なう」のような。

中谷先生もこの辺は「オートポイエーシス」などを普通に使ってて、イケイケで聞いていて楽しかった。楽しくて難しかったため、あんまりノートとってない。


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