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開拓の歴史 [修論へむけて]


日本民衆史〈1〉開拓の歴史

日本民衆史〈1〉開拓の歴史

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 未来社
  • 発売日: 1963/06
  • メディア: 単行本

宮本常一「日本民衆史」シリーズの総論にあたる「開拓の歴史」を読んだの備忘録。
perfumeを聴いています。

一 食用植物の確保
日本人が古代からどのように生きてきたのかを考えることは、開拓者の歴史を考えることと同じようなものである。その開拓者たちの生活を支えたのは自然採集によるところが大きかったとしている。とくに、採集と畑作を強調しているところが本著の特色であろう。
「記録を中心にして書かれた歴史では、採集経済時代から農耕経済時代にはいると、すべての農民が農耕によって生きているような筆致で書いているけれども、本当の民衆の歴史はそういうものではなく、平坦な水田単作地帯をのぞいては、なお採集経済が長く続いていたのである。そして農民たちは米は税としておさめ、自分たちは畑でつくったものや、自然採集したものに大きくよってきたのが、明治・大正までの姿であるといっていい。」(p.20)
一部を除く広い範囲で明治・大正まで採集経済が続いてきたというのはにわかに信じがたいのだが、柳田國男『山村生活の研究』や同『郷土食慣行調査報告書』などによると、とくに東日本では自然採集の割合が多く、一日一度は餅を、トチやドンクリなど果穀類の餅を食べているところが多いそうだ。
こうして日本の民衆はいつまでたっても原初の生活から容易にぬけだせなかったのであるが、それにもかかわらず、この国土のあらゆる振りな条件を克服して、隅々にまで住みついたのである。(p.21)
自分の現実生活と乖離しすぎてて、まるで実感がない。

二 畑作おこる
日本の農耕の歴史は稲作を中心に展開するのであるが、農耕の起源は、水田耕作以前に畑作があったと推測され、国名も畑作の名前がついたものがいくつかあるとか。安房・阿波はアワ、吉備はキビ、信濃はシナノキ(繊維)、武蔵は焼畑(東京都の西部や山梨では焼畑をサシとかサスとか言うことがある)から来たのではないかとしている。正直粟は何度か食べたことあるけどキビ(黍のほうが稷より味が良かったらしい)も実感がない。
元来、畑作物は貢租の対象になることがすくなかったから、その様子を伝える記録はきわめてすくないのだが、とにかく農耕のなかで畑作のしめる位置はかなり高いものがあった。それもそのはずで、明治初年までは畑の面積のほうが水田面積よりもひろかった。そして畑があることによって民衆は日常の生活をうちたてることができたといえよう。

三 狩猟から放牧へ
シカやイノシシの狩猟は今でも続いているけど、人々が定住するにつれて放牧が始まり、古墳時代にはいるとウマやウシの数が増え始めた。東北地方の馬は頑健で走るのも早かったらしく、中部や近畿の馬の2-3倍の値段(イネ600束とか)で売れたらしい。すごい。それにしても「牧」の景色のイメージができない。長野に多いらしい。

そして

四 鉄と織物と木器
五 稲作技術の伝来
六 稲作の発展
七 古代国家の統一
八 条里の村
九 水田の増加
一〇 荘園の発達
一一 名田と垣内
一二 太閤検地の意義
一三 戦争から開拓へ
一四 開拓郷土と草分け百姓
一五 小農経営の成立
一六 牧から畑へ
一七 焼畑の変遷
一八 老人と開拓
一九 次三男と貧民
二〇 新作物と開拓
二一 明治以後の開拓

と続くのだが、このペースで書いていくのはまる一日はかかるのではないか。
挫折。そのうち書き足します。
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