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サブカルチャー論(第8回) [サブカルチャー]

12/2、18時15分、文学部にて 宮沢章夫「サブカルチャー論」

(最初の雑談)アニメーションについて
78年に宮沢さんが多摩美に休学から復帰復帰したとき、以前は実験的なアニメを作るサークルしかなかったが、復帰後はアニメ好きのサークルができたとか。

79年、アメリカにMTVが出来る。PVを流すことで音楽が売れるという事実が発覚し、そこからプロモーションビデオ(ミュージックビデオ)が作られるようになる。

バグルス「ラジオ・スターの悲劇」を見る。
1981年にアメリカのMTVで、開局時に最初にオンエアしたPVが、この「ラジオ・スターの悲劇」
すごく面白い。30年前だけど古くないし、当時としては相当実験的な映像なんだろうな。



80年代と都市文化、サブカルチャーの変容

広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー)

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  • 作者: 北田 暁大
  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
  • 発売日: 2002/10
  • メディア: 単行本



1 文化の中心都市の遷移について

原宿、表参道
ブラタモリの表参道の特集の映像を見る。表参道は明治神宮の完成に合わせ国家プロジェクトで整備された土木感溢れる道で、その前までは、閑散とした砂利道だった。

hills.jpg
当時の表参道の写真、すごい迫力。

かつて、東京の中心は、深川や浅草など東京の東側だった。特に浅草はものすごい繁華街だった。しかし関東大震災が起こり、家が焼け出された人が東京の西側に住むようになる。

ちょっと記憶が曖昧ですが、
それに照準をあわせ京王グループが新宿を中心に京王線、小田急線をはじめ私鉄を作り、新宿の基盤を築くとかそんなような話もあった気がします。

文化のヘゲモニー(覇権)、文化の中心都市とは一体なんなのでしょうか。
『都市のドラマツルギー』に、「盛り場」という言葉を用いた以下の文章があります。
ーー「盛り場」にはセクシーさがある、盛り場とは、もともとは流動的な盛りを他の場所よりも濃密に抱えた空間であり、容器」である商業施設や娯楽施設よりもまず、「中身」である「盛」そのものにあるのである。ーー
吉見俊哉『都市のドラマツルギー』

「盛り場」たりうる条件は、施設よりも中身であるということ。60年代の新宿はアングラ演劇などがあったし、80年代の原宿には欧米文化の日本化がありました。新宿、原宿には濃密な中身があった。六本木ヒルズという箱を作ったからといって、六本木が「盛り場」にならなかったのはそういう訳なのかなと。だって六本木は全然セクシーじゃないもん。ITリテラシーの高い人達が住んでも文化は生まれなさそうだし。
『死への欲望がタナトスなら、その反対のベクトル、「生きる」という方向へのエネルギーがエロスではないか。』という宮沢さんの言葉が印象的でした。

では、新宿と原宿について見ていきます。


2−1 60、70年代の「盛り場」だった新宿と独自の文化

60年代的な「二流の街」「盛り場」として、60年代性を帯びた新宿があった。
小林信彦「うらなり」(坊ちゃんから30年後。日露戦争から3年後、1938年くらいの話)の冒頭。
ーー「銀座四丁目と呼ばれる場所の角に立って人を待つのはあか抜けない行為なのだろうな、と思った。」ーー
当時すでに銀座が一流だったことが分かります。
自分の家でクリスマスのキラキラした照明を飾るくらい恥ずかしいこと、と宮沢さん(教室笑)

「うらなり」の中で堀田が、新宿が盛り場になりはじめている(また、二流の盛り場である)ということを、武蔵野館、中村屋のライスカレーも含め指摘する。映画の武蔵野館、カレーの中村屋は今もあるそうです。
「銀座」に対する「新宿」「原宿」「渋谷」がサブカルチャーなのかもしれません。
ちなみに新宿の前の「二流」の盛り場は神楽坂だったらしい。銀座はずっと一流。

2−2 60年代とアートセンター新宿文化

伊勢丹の近くに「アートセンター新宿文化」という場所があった。今は文化シネマ。
そこでは、ゴダールなど芸術性の高い映画を安く見ることが出来て、若者が集まった。
「気狂いピエロ」の映像を見る。車を燃やすシーン。(これは予告編)


アートセンター新宿文化では、映画を見た後に演劇を見たりもできた。
また新宿では、唐十郎さんの状況劇場、佐藤信さんの黒テントなどアングラ演劇が人気を博した。
百果園という果物屋(今もアルタの隣にある)の前では大規模なデモが起こり、
風月堂というジャズ喫茶には、横尾忠則や寺山修司などの芸術家や、外国人旅行者が集まった。
時代の中心だった都市には、そのような「伝説の場所」があった。
また、新宿紀伊国屋書店も時代を象徴する施設の一つ。
もちろん当時アマゾンなんてない。紀伊国屋に行けば欲しい本がある、という特別な記号性が新宿紀伊国屋書店にあった。

大島渚「新宿泥棒日記」を見る。
時代の寵児だったグラフィックデザイナー横尾忠則が紀伊国屋で万引きをしようとするシーン(これは予告編。ハードボイルド?な感じだなあ。かっこいい)


当時の宮沢さんには「東京に行く」=「新宿に行く」くらい、文化の中心が新宿にあったそうです。

3 新宿から原宿へ。原宿とは一体何か?

文化の中心家は明治通に沿って原宿、渋谷へ。という話は先週の授業でやりました。80年代になると原宿が文化のヘゲモニー(覇権)を獲得します。その背景は何だったのでしょうか。
川島蓉子「TOKYOファッションビル」を読む。

TOKYOファッションビル

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  • 作者: 川島 蓉子
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2007/05/22
  • メディア: 単行本


3−1 ワシントンハイツ

代々木公園がなんであんなにだだっ広いかというと、戦前はアメリカ陸軍の領地だったからです。
アメリカ空軍の宿舎「ワシントンハイツ」が代々木公園渋谷門の近くに建設されます。
そこに住む家族のために、キディランドや紀伊国屋ができました。
50年代に、「キディランド」が現在の位置にいち早くオープンした。
ワシントンハイツに居住する外国人の子供向けだったが、ギフト用の玩具ショップとして人気を集めるようになる。
そして、80年代。
戦後から原宿に脈々と潜んでいた新しいアメリカの文化が80年代の好景気に合わせ、原宿で「開化」した。「日本化」と置き換えてもいいかもしれません。
原宿の文化の背景はそこにあったというわけです。
(64年の東京オリンピックを契機ににわかに活気づいたのも一因です。)


3−2 原宿セントラルアパート

58年「原宿セントラルアパート」が今のGAP跡地のところにできる。(というか、原宿セントラルアパートの跡地にGAPが出来た)

ちなみに今はGAPもなくなって、現在新しい商業施設の工事が始まりました。
デザイン・設計は建築家の中村拓志さんが手がけるみたいです。
http://bit.ly/bIyTjX写真

60年代になるとそこに、クリエイターやカメラマン、デザイナーが住みはじめるようになります。
80年代には、糸井重里や朝日慎平など、横文字の職業名(コピーライターとか)の、当時の先端の職業だった人達がセントラルアパートに続々と事務所を構え、原宿の繁栄を決定づけた。

そして北参道にピテカンエレクトロプス、ラフォーレ原宿ができて、若者の街原宿の完成です。
ラフォーレも今ではずいぶん古くなったそうですが。それでも原宿のアイコンとしての印象は僕にも感じられます。

その後、原宿も文化的に衰退していきます。
原宿に「カラオケ館」が出来たときに宮沢さんは「原宿、終わったな」と思ったらしいですが、桑原茂一さんは、原宿に回転寿しが出来たときに「もう終わったな」と思ったそうです。

宮沢さんがラフォーレでやった演劇「スチャダラ」を見る。
「スチャダラパー」という名前はこのコントから生まれたらしい。宮沢さんスゲエ!

来週は「西武セゾングループによる渋谷の広告都市化についてです。それではまた。

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