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9 戦う教会、10 栄光の教会 [美術の物語]

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建築様式は一部ゴシックへの過渡期的特徴もあるロマネスク教会の傑作。
アトリウムの人間的なスケール感は、ルイスカーンにも近い(野口談)

9章と10章はともに中世の教会を中心に扱っているが、「戦う教会(12c)」と「栄光の教会(13c)」というタイトルからも分かるように、その性格は大きく異なっている。

ロマネスク(12c)とゴシック(13c)の構造的発展については過去の授業メモ「フライング・バットレスの奇跡」に書いたが、そもそも教会や修道院の建設が活発に行われるようになったのは、西暦1000年にこの世の終わりが来ると真剣に信じられていたヨーロッパ世界において、紀元1000年が無事に過ぎたことへの、神への感謝が背景にあったそうだ(野口先生談)。

9 戦う教会
「戦う教会」という言葉には、ロマネスク教会や修道院が、都市から離れた農村に多く作られたことと関係がある。自給自足の場として、共同体の紐帯の場として、ひいては存続のための中心的な存在として、教会がつくられたのだった。端的に述べられているのはここである。
ロマネスク(ノルマン)様式の教会は、昔のバシリカと基本構造は同じであっても、全体的な印象はまったくちがう。初期のバシリカでは、古典的な円柱がまっすぐな「エンタブラチャー」(装飾大梁)を支えていたが、ロマネスク様式の教会では、太い角柱が円形アーチを支えているのがふつうだ。こうした教会は全体として、内側も外側も、重厚で力強い印象を与える。装飾はごくわずか、窓さえほとんどなく、堅固で頑丈な壁と塔が、中世の要塞を思わせる。つい最近まで、異教的な暮らしにどっぷりつかったていた農民や兵士たちの土地に、力強く挑戦的な石積みの教会が建てられると、それはまさに「戦う教会」という理念を体現しているように見える。最後の審判の日、勝利のときがくるまで、闇の力と戦い続けることこそ地上の教会の使命だ、というのがその理念の内容である。(ポケット版、130p)
12世紀のロマネスク様式の特徴として、保守的なビザンティン美術と近づいたこと(十字軍の遠征があった)が挙げられる。身体の動きや生き生きとした描写ではなく、伝統的な聖なる存在をいかに象徴的に表現するか。受胎告知を描いたカラフルな絵画やステンドグラスを例に、以下のように述べている。かなり端折るけど以下引用。
受胎告知の神秘を描くには、象徴だけで充分だった。(中略)見えるとおりに描きたいという欲求を捨て去ったとき、画家の前にはすばらしい可能性が開かれていたからだ。(中略)絵画が絵文字のようなものになりつつあったのは確かだ。しかし、こういう単純な表現方法に戻った分だけ、中世の画家たちは、より複雑な構成方法(構成方法とは英語では「寄せ集めること」という意味だ)に自由に挑戦できるようになったのだ。(中略)自然から独立した当時の名工たちが、その自由をみごとに生かしているのがわかる。自然会を模倣する義務から解き放たれることによって、彼らは超自然の世界を表現できるようになったのである。(ポケット版、135-136p)
con-positionの概念がここから生まれたということなのか。

10 栄光の教会
ゴシック聖堂の構造的発展(とくにフライングバットレス)はここでは触れないが、ゴンブリッチは、フランスやイングランドのゴシック聖堂の入り口に並ぶ生き生きとした彫刻群から、古代技法(ギリシャ)の復活、自然を見つめる眼の復活を指摘している。
13世紀の文化の中心はパリに移り、イタリアは保守的なビザンチン美術との交流もあり、変化という点では遅れをとった。
ここで、イタリアの絵画に革命を起こした人物として、ジョットが大きく紹介されている。というか、『美術の物語』を読み進めていくなかで、作家の人物名がここまでフューチャーされているのはジョットが初めてだ。
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一気にここまで来たか。というか、ああ、いよいよルネサンスがやってくる感じがする。
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7 東方を見てみると、8 るつぼの中の西欧美術 [美術の物語]

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7 東方を見てみると
宗教の物語を描くとき、ときに人物像を作ることが禁止されるとき、美術はどのように振るまってきたのか。今回はキリスト教以外の2大宗教、イスラム教と仏教について。

イスラム教と図像の関係を端的に述べたのは以下の一文だ。
8世紀に破竹の勢いで広がった中東の宗教――ペルシャ、メソポタミア、エジプト、北アフリカ、スペインを制服したイスラム教――は、図像についてはキリストよりもはるかに厳格だった。そもそも図像の制作が禁じられていたのだ。しかし、美術というものはそう簡単に抑えられるものではない。事実、人物像を作ることが許されなかった東方の職人たちは、模様や図形に想像力の捌口を見出した。アラベスクの名で知られる精緻極まるレース模様は、こうして生まれたのである。(ポケット版、111p)

図像が作れなかったから模様が発達した、ってホントなのだろうか。とはいえゴンブリッチによれば、イスラム圏の装飾模様のデザインや配色の由来を辿っていくと、最終的には予言者ムハンマドに行き着くらしいのだ。

アンダルシアの都市と田園

アンダルシアの都市と田園

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 2013/02/13
  • メディア: 単行本
この前読んだ『アンダルシアの都市と田園』では、装飾ではなく、グラナダをはじめとしたアンダルシア都市のパティオ(中庭)を囲んだ住宅と都市の関係が詳細に語られていてとても面白かったのだが、こういう住居形式にもまた、宗教的な理由があって出来たのだろうか。

いっぽう中国をはじめとして仏教圏において、しばしば美術は「瞑想のための手段」として制作されたという。「自然から数少ないモティーフをとってきて、それだけを描く態度」。そんなに瞑想ばかりしていたのだろうか。

8 るつぼの中の西欧美術
313年にキリスト教がローマ帝国の正教に定められてからの300年を初期キリスト教時代とよぶ。この時間には聖書の内容を伝えるのに美術が用いられてきた。建築ではサン・ヴィターレ聖堂(543)やサンタポリナーレ聖堂(549。ともにラヴェンナ。両方見たい)といった初期バシリカ構造の傑作が生まれた。
で、476年に西ローマ帝国が崩壊してからの500年間。だいたい500-1000年くらいの間を一般に「暗黒時代」というそうだ。なぜ「暗黒」かというと、①民族移動と戦争の時代だった、②資料が残っていない、③数多くの様式がせめぎあっていた、などの特徴があるからだ。
このあとイングランドやゲルマン系民族の美術が紹介されるのだが、ここではじめて「中央と周縁」という構図が初めて生まれたのではないだろうか。フランク帝国(ドイツ)のカール大帝がサン・ヴィターレ聖堂をマネしてアーヘンの宮廷礼拝堂(805)を作ったように、(あくまで文化的な)先進国と後進国のような意識はできていたのではないか。

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聖マタイ(アーヘン、830頃)source image かっこいい。

というわけでこの時代の美術の特徴を一括りにすることは、いくらゴンブリッチ先生とはいえ難しそうだけれど、ケルトやノルマン、フランク帝国といった「当時の後進国」の美術の特徴は、表現においても想像力を最大に駆使している、というところだろうか。ちょっと長くなるけど、上のマタイの絵に対するゴンブリッチのテキストを引用してみよう。
(中略)こういう絵を見ると、新しい中世様式が出現したのだと納得できる。いまや、古代オリエント美術でも古代美術でもなされなかったことが、可能になったのだ。エジプト人はおもに「知っている」ことを描いた。ギリシャ人は「見えている」ものを描いた。だが、中世の画家は「感じている」ことをも表現できるようになったのである。 「感じている」ことの表現を目指していたという点を押さえておかないと、中世の作品を正当に評価することはできない。中世の芸術家たちは、実物そっくりに見せかけたり、美しいものを作りたがっていたわけではない――聖なる物語の内容やメッセージを、信仰の仲間に伝えようとしていたのだ。(ポケット版、124p)
審美性みたいなものが制作における評価軸に入ったり入らなかたりするのは面白い。ギリシャ美術は明らかに審美性があったし、エジプトはその中間くらい。もちろん「美しさを目指すこと」と「物語を伝えること」は相反しないが、この時代の「美しさ」の基準は、ギリシャ的なプロポーションの美学とか、「観察したものをいかに定着させるか」というところにあったんだろう、という気がする。
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5 世界の征服者たち、6 歴史の分かれ道 [美術の物語]



ローマのアーチや弱い技術については西洋建築史「砂糖菓子の脅威」でもやったけれど、それにしてもパンテオンすごい。パンテオン神殿は紀元120-124年の建設、万の神の神殿という意味であり、ローマ建築の最高傑作だ。古代神殿は破壊され廃墟になるものが多いが、パンテオンは313年にキリスト教が公認されてからも、教会に転用されることで生き延びた。夏ぜったい見に行く

このへんから政治的な国家レイヤーと宗教レイヤーがごっちゃになってくる。313年からの3世紀くらいを美術史や建築史では初期キリスト教時代と呼ぶ(わたしはキリスト教についてはぜんぜん知らない)が、ゴンブリッチは、キリスト教の興隆の目の当たりにし、人々がそれを受け入れることになったこの時代を「古代世界の終焉」と結んでいる。

図のカタコンベの壁画に対してのゴンブリッチの解釈はこうだ。
彼らは、絵筆をさっと2、3回動かすだけで、人間の姿を浮かび上がらせることができた。けれど、彼らは、そういう効果や技巧にあまり関心がなかったようにも感じられる。絵はもはや、たんに美しい存在ではない。むしろ絵のおもな目的は、神の慈悲と力の大きさを信者に思い出させることにあった。(ポケット版, 98P)

「死者のための美術(エジプト)」→人「間のための美術(ギリシャ)」→「宗教のための美術(初期キリスト教時代)」という風に(自分なりに)単純化するのは良くない気もするが、ともかくゴンブリッチは、たとえばギリシャ美術のラオコーン像と対比させながら「忠実な模倣という理想から、単純明瞭な観念の表現へと秤が傾きはじめたのだ(99p)」と、ギリシャ美術の洗練と調和(観察による、ありのままの自然な形と短縮法)が変化していることを指摘する。
ストーリーを伝えるために余計な細かい描写を省略するようなことは今もよくあることだし、伝えることから表現を考えるのは「広告」的な考え方になっているようでもある。

キリスト教時代の最大の問題である図像をOKとするか否か問題はここでは触れないけど、このへんは面白そうではある。

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ギリシャ:3大いなる目覚め、4美の王国 [美術の物語]


エジプト美術が「ここではないどこか」に向けてつくられたものだとすれば、ギリシャは「人間のために」つくられたものであり、「知識をもとに、自分の目を信じること」にその特色がある、というのがこの2章分のメッセージだろうか。端的にまとめられているのはここだ。
ギリシャ時代の偉大な革命の時代――ありのままの自然な形と短縮法を発見した時代――は、人類史のなかでも、もっとも驚嘆すべき時代だった。それはまさに、ギリシャの都市に住む人びとが、神々についての古来の言い伝えに疑問を抱き、先入観を排し、ものごとの本質を探求しはじめた時代だった。それは、今日私たちが理解しているような意味での科学と哲学が、初めて人びとの心に目覚めた時代、ディオニュソスを称える儀式から初めて演劇が誕生した時代だった。(ポケット版、68P)
しかしながら当時の芸術家たちはけっして知識階級ではなく、あくまで手を使って生計のために働く人々だったという。
具体的には短縮法の発見(B.C.500ごろ)はじめ、輪郭線の継承(エジプト美術から)や運動感の表現といった特徴をみることができるが、「からだの働き」を描こうとした目的は別のところ、「魂の働き」を描くためだったという。
しかし、当時のギリシャ人たちがもっとも重要だと考えたのは、それとは別のことだった。どんな姿勢の、どんな動きをする人体でも自由に表現できる、という新しい技術を使って、彼らは人物の内面を映し出そうとしたのだ。彫刻制作の訓練を受けたことのある大哲学者ソクラテスは、弟子のひとりの言によれば、芸術家たちの内面を表現するよう奨めていたという。表現すべきは「魂の働き」であり、それには「感情が体の働きに及ぼす影響」を正確に観察しなければならない。それがソクラテスの考えだった。(p78)
こういう考えが2500年も前に生まれていることがすごいし(ソクラテスすごいよ)、この一文を書いたゴンブリッチもすごい。

この「大いなる目覚め」は紀元前520年から420年までの100年だったという。この時代に広場も演劇も批評行為も始まったというのだから、彼が革命と言うのも決して大袈裟ではないように思える。

こうしたギリシャ美術はアレクサンドロスによって東方に伝播したヘレニズム美術のなかでさらに多様化するが、ヘレニズムについては詳しくは割愛。覚え書きだけすると
・肖像の誕生
・荒荒しい強烈な劇場効果が好まれる傾向(ラオコーンとか)
・作者による能力の誇示や、人々を喜ばせようとする意図
・美術が古くから有していた呪術的な関係がおおかた失われる(ゴンブリッチはこれを否定的には捉えていないのもミソ)
・風景画の誕生(ヘレニズム期において最も革新的だとされる)
・ただし、パースペクティブ(一点透視)の誕生はさらに1000年以上先

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第2章 永遠を求めて エジプト、メソポタミア、クレタ [美術の物語]

第一章を書いてからひと月が経ってしまった。未だ早起きは確立していない。。ダメダメだ。
ともあれ7時に起きて毎日このブログを書くことを改めて目標にします。これは楽しいから。

第二章はエジプト美術について。
「墓は語るか」のテキストで岡崎さんは「墓の両義性」(これについてはまた)について述べていたが、少なくともエジプト美術は「死者のため」にあるものであった。なぜなら生きているものが誰ひとり見ることが叶わないからだ。テキストを見てみよう。
エジプト人の信仰では、死後の魂にとって遺体を保存するだけでは不十分だった。王の肖像もいっしょに残せば、さらに確実に王は生きつづけることができると考えられていた。そこで彫刻家に命じて、固くて風化しにくい御影石で王の頭頂部を彫らせ、それをだれの目にもふれない墓室に納めた。墓のなかではまじないが働き、肖像を通じて魂は生きつづける。現にエジプトでは、彫刻家は「生かしつづける者」と呼ばれた。(中略)その厳粛ですっきりした感じは、一度みたら忘れられない。(中略)人間の頭部の基本的に形が、厳しいまでの集中力で追求されているからだ。 (ポケット版50-51p)
ゴンブリッジはエジプト美術に見られるこうした特徴を「幾何学的な調和と鋭い自然観察のバランス」としている。「きれいさでなく完全さ」が求められたのは、その目的が「死者のため」であり、死後の王に仕えることができるものを(おそらく描いたものが具現化すると考えていた)描ききる必要があったからだ。

「観察と抽象化」これこそデザインの基本だと思うんだけど、こうした技術が5000年前から存在していたこととがびっくり。いきなりすごい技術が登場した!というか、設計演習Aで少しずつ習得した技術が、最も古いとされるエジプト美術で非常に高度なレベルで達成されているところとか。。
しかもそのスタイルは3000年近くも続いたという。かの巨大なピラミッドの建設にしても、はたまた一神教の存在にしても、人間を遥かに超えるスケール感がクレイジーに思えてならない。けれども永遠に続く砂漠と焼きつくような太陽の下では、「私たちより圧倒的に大きなもの」を想像せざるをえないのだろうか。

以下では本書で語られていたエジプト美術の特徴をまとめるが、つまるところ「そのやり方は画家の仕事というより地図作りに似ている」という言葉に集約していると思う。
・死者の魂以外、だれも見ることはない
・はるか昔は有力者の死の際には召使いや奴隷も(あの世でのお供として)埋葬される習わしがあった
・その身代わりとなる像(イメージ)が彫刻やレリーフといった美術品だった
・人や木や動物など、その特徴がもっともよく分かるような角度から描く
・人間からどう見えるかは重要でないため、遠近法は用いない。データ化。
・重要な人物は大きく描かれる
・画家たちは壁に直線の編目をつくるところから始めた(方眼用紙)
・鳥や魚はいまもその種類を識別できるほど細部にいたるまで正確に描かれた(知識を描く)

生きている人は誰ひとり見ることが許されないからこそ、誰が見ても理解できる工夫が必要となった。永遠をもとめて、誰よりも他者のために作られた美術。それはある意味で地図よりも客観的だ。
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1章 先史文明 [美術の物語]

というわけで早朝に美術の物語を一章ずつ読むのが日課になりつつある。素敵だ!

1不思議な始まり

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ラスコー洞窟の壁画
美術の始まりは小屋と同じだった。小屋が強い日差しや雨風から身を守ってくれるように、なんらかのイメージをつくることは、自然の脅威を生み出す精霊からも身を守ってくれるものだった。

それらは、「実用的なもの」として使わないと意味がない。「イメージの力」展でさんざん見た世界各国のお面や像も同様に、たんなる飾りではなく、実際の「効果」を期待して制作されたものだ、ということは見ていてつくづく感じた(ただ、メキシコ系の人形はおそろしい程にゆるキャラで、脱力してて笑えるものばかりだった)。いったいぜんたい「イメージ」に込められた思いはどれほど強かったことだろう。見えないものとつながるろうとする力が現在とは全然ちがう。だから精霊や死後の世界が身近な存在であった「霊性ネイティブ」の彼らには、羨ましさすら感じてしまう。

そうして多種多様なお面が作られているわけだが、多少おかしなことになっていても、ちゃんと「顔」と認識できることが大事だ。それが個人の経験なのか、人類の記憶から来るものなのかは分からないけど「お面のバランスが少しでもずれてたら顔に見えない」ようであれば、お面はここまで汎用性のあるものにはならなかっただろう。

位置関係がだいたい同じなら、顔に見えるはずだ。未開人の作り手にとって、これはたぶんとても大きな発見だった。位置関係がだいたい同じなら、多少変化をつけても顔に見えるのだから、顔や形を作るのに、自分の好きな形を、自分の技術レベルに合わせて選べるのだ。そうして出来上がったものは、あまり写実的ではなかったかもしれない。しかし、位置関係に一定のパターンがあるため、ある程度の統一と調和が感じられたはずだ。(p.46)

と、ここまで書いて、以前アトリエ・ワンが、お面に潜む「人間の顔の定型」を建築に例えて書いていたのを思い出した。彼らは建築の長い歴史において生み出されてきた定型や類型を「系譜」としてとらえ、系譜を出発点に設計活動を行なっている。

「人間の顔という定型を成立させている不変の配置のなかで励起された、特定項目の想像的な振る舞い」。お面の意味はこのように位置づけられる。このお面の変形技術、変形をめぐる知性には学ぶべきことが多そうである。『空間の響き/響きの空間』(INAX出版、2009、p.17)
(中略)つまり、さしたる特徴もないあたりまえのたくさんの住宅に似ていながらも、あるいは似ているからこど、一部を変形させることによって、おもしろい、驚きをもった建築をつくることができるのである。同p.18

実用、類型という二点において(現代においてお面が実用性を帯びる場面は少ないが)、お面と建築に共通点があり、そして僕はお面も建築も大好きである。

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序章 美術とその作り手たち [美術の物語]


美術の物語

美術の物語

  • 作者: E.H.ゴンブリッチ
  • 出版社/メーカー: ファイドン
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本

伊藤暁さんと木口さんが『美術の物語』について熱く語っていたら、研究室に廉価版じゃないものがあったので、ありがたく読み始めた。というわけでまずは序章。絵を描いているときのバランス感覚。
これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。(p.15)
この章で気になった絵
Albrecht+Durer+-+Portrait+of+Durer+s+Mother+.JPGアルブレヒト・デューラー「母の肖像」
540px-Durer_Young_Hare.jpgアルブレヒト・デューラー「野うさぎ」

11_Picasso_chick.jpgパブロ・ピカソ「雌鳥とひよこたち」

KHM-Raffaello.JPGラファエロ「草原の聖母」

リンクで画像が貼れなくて絶望している。
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